戦後生まれ、最年少。
これでいいと思う。
もっとも無難で妥当な人選ということであれば、おそらく麻生さんでしょうね。本当に無難に考えれば、安倍さんという選択肢は、あまりピンときていない。でも、これでいいと思う。
美しい国を作りたい
いいですね。同感です。
しかし、美しいという言葉は、時に大変に危険な言葉。うまくいえない。これは皮膚感覚なので。あえていうならば、理念の中にしか現れることできない、おとぎ話の危うさ。
保守の再構築。美しい保守とはなにか。
教育の改革。美しい教育とはなにか。
戦後レジームからの脱却。美しい戦後とはなにか。
どうして私の心は疼くのか。
球形の荒野という、松本清張の小説がある。私は映画を先に見たのだが、忘れられない台詞がある。
「あの時代のことが、お前等なんかにわかってたまるか」
ある老人が、戦後生まれの主人公に吐き捨てた言葉。
そう、我々戦後生まれにあの時代のことは分からない。
当事者でなければ語ることが出来ない領域があるのは確かだが、それを言うと言論の可能性を潰してしまうという当たり前の話を、以前にどこかで書いた。でも、それでもやはり当事者にしか踏み込むことの出来ない領域はある。
太平洋戦争が終わり、それから50年以上の年月が過ぎ、戦後生まれも総理大臣になるかという年になった。
戦争と貧困とファシズムの記憶の中で、戦後民主主義教育という言葉にまだ確かな説得力があった時代。そのとき、我々は国家の再生の中で、何かを忘れていたような気がする。
再生されるべきは、国家なのか、国民なのか、民族なのか。
そして見事な復活と繁栄の中で、我々ははそもそもの問いかけ自体を失っていたのではないのか。
では、いま問い直すのか。
美しい日本とは、なにかと。
美しさとは、なにか。
美しさを問う前に、問いのあり方自体を問い直す必要はないのか。
美しさとは、愛だと思う。
愛ほど美しいものはない。
もうずっと昔、つかこうへいが新聞のコラムに書いていた。
祖国とは、自分の瞳に映る、愛する家族や、友人や、恋人や、懐かしい故郷の風景の中にある、と。
私は、この言葉を忘れることができない。国を愛するということの意味が、すべてここのあると思った。
教育で美しい国は創り上げられるのか。
戦後レジームからの脱却とは、保守の再構築の言いかえではないのか?そこに本当に美しい戦後は現れるのか?
ナショナリズムとは、正しく愛によって成り立つ、ある共同幻想でしかない。現在の若者を大きく巻き込むナショナリズムの高揚は、本当に正しくナショナリズムなのか。戦後レジームからの脱却という言葉に、ひとかけらの反動という要素もないのか?
ナショナリズムとは、反動によっては決して結実しない。
戦後50年をとうに過ぎ、我々は日本という国家にとってナショナリズムとはなにか、あるいは国民にとっての、またあるいは民族にとってのネイションとはなにかという問いを、初めて戦前という時間の流れから完全に切れたところで求め始めた。
安倍晋三という人物が、真に総裁にふさわしいかどうかと問われれば、私は否と答える。でも、これでいい。日本という国家が、成長の過程で通らなければならないひとつのフェーズなのだと思う。
5年後に、この国はずいぶんと違う姿になっているのではないかという気が何故かする。見た目は一緒でも。安倍晋三は、そのための踏み絵になってほしい。
これでいいと思う。
もっとも無難で妥当な人選ということであれば、おそらく麻生さんでしょうね。本当に無難に考えれば、安倍さんという選択肢は、あまりピンときていない。でも、これでいいと思う。
美しい国を作りたい
いいですね。同感です。
しかし、美しいという言葉は、時に大変に危険な言葉。うまくいえない。これは皮膚感覚なので。あえていうならば、理念の中にしか現れることできない、おとぎ話の危うさ。
保守の再構築。美しい保守とはなにか。
教育の改革。美しい教育とはなにか。
戦後レジームからの脱却。美しい戦後とはなにか。
どうして私の心は疼くのか。
球形の荒野という、松本清張の小説がある。私は映画を先に見たのだが、忘れられない台詞がある。
「あの時代のことが、お前等なんかにわかってたまるか」
ある老人が、戦後生まれの主人公に吐き捨てた言葉。
そう、我々戦後生まれにあの時代のことは分からない。
当事者でなければ語ることが出来ない領域があるのは確かだが、それを言うと言論の可能性を潰してしまうという当たり前の話を、以前にどこかで書いた。でも、それでもやはり当事者にしか踏み込むことの出来ない領域はある。
太平洋戦争が終わり、それから50年以上の年月が過ぎ、戦後生まれも総理大臣になるかという年になった。
戦争と貧困とファシズムの記憶の中で、戦後民主主義教育という言葉にまだ確かな説得力があった時代。そのとき、我々は国家の再生の中で、何かを忘れていたような気がする。
再生されるべきは、国家なのか、国民なのか、民族なのか。
そして見事な復活と繁栄の中で、我々ははそもそもの問いかけ自体を失っていたのではないのか。
では、いま問い直すのか。
美しい日本とは、なにかと。
美しさとは、なにか。
美しさを問う前に、問いのあり方自体を問い直す必要はないのか。
美しさとは、愛だと思う。
愛ほど美しいものはない。
もうずっと昔、つかこうへいが新聞のコラムに書いていた。
祖国とは、自分の瞳に映る、愛する家族や、友人や、恋人や、懐かしい故郷の風景の中にある、と。
私は、この言葉を忘れることができない。国を愛するということの意味が、すべてここのあると思った。
教育で美しい国は創り上げられるのか。
戦後レジームからの脱却とは、保守の再構築の言いかえではないのか?そこに本当に美しい戦後は現れるのか?
ナショナリズムとは、正しく愛によって成り立つ、ある共同幻想でしかない。現在の若者を大きく巻き込むナショナリズムの高揚は、本当に正しくナショナリズムなのか。戦後レジームからの脱却という言葉に、ひとかけらの反動という要素もないのか?
ナショナリズムとは、反動によっては決して結実しない。
戦後50年をとうに過ぎ、我々は日本という国家にとってナショナリズムとはなにか、あるいは国民にとっての、またあるいは民族にとってのネイションとはなにかという問いを、初めて戦前という時間の流れから完全に切れたところで求め始めた。
安倍晋三という人物が、真に総裁にふさわしいかどうかと問われれば、私は否と答える。でも、これでいい。日本という国家が、成長の過程で通らなければならないひとつのフェーズなのだと思う。
5年後に、この国はずいぶんと違う姿になっているのではないかという気が何故かする。見た目は一緒でも。安倍晋三は、そのための踏み絵になってほしい。