デザイン会社の社員に求められる大きな要素に、「質」を感じる感性があります。これは、プロダクトのディティールを若干注意深く見ることが出来るというような、少しばかりのデザインを見る目のことを言っているのではありません。手先が器用で人よりましな質の絵が書ける、という質でもありません。

ここでいう質を感じる感性とは、例えば一人2万円の食事のコースを食べて、その金額にびっくりしないことです。
例えば一泊20万円程度のスウィートルームに宿泊して、うろうろと落ち着きをなくさないことです。
例えば、カーディガン一着10万円以上の服が、ごく当たり前の価格設定にあるようなブランドの路面店に、なんの気後れもなく入れることです。

贅沢をしろ、ということではありません。
質の幅というものを感じ、それをあたりまえに許容できる感性の度量を備えて欲しいということです。
高級車といわれて、Mark2あたりでも高級車だと思ってみたり、高級な質感とはなにかと問われて、5万円くらいのデラックスルームしか頭に浮かばないようなことでは困る、ということです。

自分の日常生活に、2万円のコース料理や、20万円のスウィートや、10万円カーディガンが入り込んでいる必要はありません。そういうものに対する想像力と、それを普通に受け止められる程度に貧相ではない精神をもって欲しい、ということです。

貧乏と貧乏くさいのは、まったく違うことです。
貧乏であっても貧相さを見せない人もいますが、金はあるのに貧相な人間もいます。

なぜそんなことを言うのか。

それは、その程度の余裕や豊かさを心に持てない人間の描いたデザインは、間違いなく貧しいデザインだからです。

2万円のコース料理を毎日食べる必要はないと言いました。当然そうです。私もそんなことはしないし、できません。べつに金持ちではありませんから。
しかし、食事といえばコンビニ弁当かファミレス、あるいは大戸屋や松屋、飲み屋といえば村さ来あたりで、権八くらいでも高くてお洒落というデザイナーに、まともなデザインが出来るとは通常思えません。できるとしたら、それはその人が持って生まれた感性が、普通以上に豊かな時だけです。
自分の日常生活を彩る食事ごときに、その程度の想いと質しか感じることの出来ない人間に、豊かなデザインは出来ません。

違う見方も出来ます。
わかりやすい具体的な意味がなかい物や事、結果を問わない過程そのもの。こういうものに余計な理屈やもっともらしい意味の装飾をつけずに、すなおに楽しむことの出来ない人に、面白い人間はいません。そして、そういう人間のデザインに、たいしたものはありません。

無駄を無駄としてしか認識できない、ということではありません。そもそもそれを無駄と認識する感性、価値観がダメだということです。
それが無駄かどうか、という判断、発想が生まれる時点で、たぶんその人にとってその無駄は後付の理屈や体裁によって無駄ではないものに置き換えられるだけです。
無駄なものを無駄とすら感じずに、すなおに一つの質として受け入れられるだけの度量や感性の幅のないつまらない人間に、豊かなデザインはできません。

私は、デザイナーの本質的な能力は、その人の食生活や台所の様子をみれば、おおよその場合は想像がつくと思っています。