戦争でも内戦でも紛争でも、人が戦い死んでゆくことは確かに悲しい。
一児の父親(だった)身として、我が子をなくし泣き叫ぶ親の姿を見れば、落涙禁じえないというのは確かにそうです。しかし、この手の話にはいつも最後は口をつぐんでしまいまうことも事実です。
先日、昔の新聞がポロッと出てきて、たまたま記事に北オセチアで学校占拠をしたチェチェンの武装勢力のことが載っていました。もう随分たちますね。痛ましい事件でした。
しかしこういう話になると、必ず傍観する側の良識として口にされる言葉がありますね。
「我々には計り知ることの出来ないそれぞれの状況がある。知ったような顔で身勝手な意見は言えない」
私は、「とりあえず」この言葉に賛同します。
戦争反対でも差別反対でもなんでもいいですが、そういう話になると短絡的な感情論が必ず噴出します。曰く戦争は良くない、曰く戦争は可愛そうだ、云々・・・
人道的な立場でいえば、戦争が良いことではなく、可愛そうな現実を引き起こすことであることは当たり前です。根拠は明快で、「戦争になれば人が死に、また戦災で苦しむ人や、大切な人を失って悲しむ人がいるから」ということです。
確かにね。でも、そりゃそうですが、だからといって「戦争反対」と題目を唱えても、自分自身を戦争に反対する人と確認して自分を納得させることは出来るでしょうが、何ら事態の収束には役立ちません。むしろ短絡的な批判の言葉は、当事者を逆上させるだけです。
例えば、北オセチアで学校占拠をしたチェチェンの武装勢力の話。はたして彼らが子供を大量に殺害するようなテロリズムに走るに値する正当な根拠を持っていたかどうかはわかりません。しかし、少なくとも彼らに対して「ひどい!」と声を荒げたとして、じゃあその武装勢力の側から「お前たちは、なぜ我々が自らの命を捨ててまで武装蜂起し、子供の殺害までするのか分かるのか。我々のその苦悩を知っているのか」と問われて、彼らを論破するような言葉を口にすることができる日本人が何人いたでしょう。当事者である彼らの目を見つめながら、「テロはよくない、お前のやっていることは間違えていると」と明快な根拠を持って言える日本人は何人いたでしょう。
私の予断であることを断った上で言えば、その武装勢力に対しての「ひどい」およびそれに続く「テロは良くない」の言葉はほぼ全ては、単なる感想でしかありません。言い換えれば、言っても言わなくてもどっちでもいい言葉、ということです。別に感想をいうことはかまわないのですが、自分の言葉がそういう性質のものだという自覚もなく、なにか練り上げられた思考や論理でもあるかのような勘違いの中で、ひどく短絡的な感想が垂れ流されることに、私はとても苛立ちを覚えます。
子どもを大量に巻き込んだテロリズムは、確かに残虐であり許されることではないのかもしれません。私が殺された子供の親であれば、きっと悲しみと怒りに震え、逆上したことでしょう。
しかし、例えばチェチェンの問題は、隣国グルジアの民族紛争を混乱させたり、他のイスラム原理主義勢力の加勢につながる危険性から、ロシアも強権的な押さえ込みに必死です。でも、複雑な民族構成とイスラムの教えを信じる北カフカス地域の民衆が、帝政ロシアやソビエト時代の圧政により、自らの民族の尊厳と自由を踏みにじられてきた歴史もあります。その上で、民族の独立を望むチェチェンをはじめとした北カフカスを押さえ込むロシアの政策に、彼らもやり場のない憤りを感じているはずです。戦後、自分達の国家観や民族性というものを意識することなく生きてこられた我々には、どうしても計り知ることのできない苦悩が彼らにはあったでしょう。だから、状況は収拾されるどころか益々険悪なことになっていくのです。
それらのことを抜きに、「テロは良くない」と言うことに、いったい何の意味があるのでしょうか。もし同じ「テロは良くない」とい言葉を使ったとしても、そのチェチェンの内実を理解した上で、それでも彼らの目を見つめながら言う「テロは良くない」という言葉と、単なる感想として語られる「テロは良くない」とは、全く違う内実の言葉です。
一時期、街頭でアメリカのイラク攻撃や、イラク派兵反対の署名が行なわれていました。別にそれ自体を否定する気は毛頭ありません。しかし、私はその署名を求める人が目の前に立つと、時々質問をしました。
「何人分集めると、アメリカのイラク攻撃は中止されますか?」
その質問に誰一人としてまともに答えた活動者は一人もいませんでした。
べつに明快な回答が欲しいわけではありません。わからないならわからないでもいいのです。私が問いたかったのはそんなことではありません。私の問いの「本当の内容」はこういうことです。
「あなたがたは、いま自分がしている署名活動というものに、アメリカのイラク攻撃の阻止に対してどれだけの実効性、影響力があると計算していますか」
普通に考えれば、日本国民全員が反対の署名をしようとも、アメリカのイラク攻撃は中止されないでしょう。別にそれならそれでいいのです。ただ、いま自分の行なっている行為にどういう意味があるのか、どういう実効性があるのか、その明確な自覚や計算がないままに、「署名活動をして戦争反対を唱える」という、本来手段であるべきことが自己目的化していることにまったく自分で気づいていないまま、偉そうに間抜けな自我の垂れ流しがなされることにムカつくわけです。
無理なら無理と答えて欲しいのです。「アメリカのイラク攻撃中止は、自分達にはどうやっても無理だ。しかし無理だからといって口をつぐんでしまって、何も考えなくなることを防ぎたい。無理だからこそ、望みが薄いからこそ、その現実を忘れないために常に考える意識を持ち続けたい。だから反対の声をあげるんだ。現実に中止できるか否かは問題ではない」例えば、こんな回答がされたのであれば、私は素直に納得し、署名に協力をしたかもしれません。
北オセチアで学校占拠の話に戻りますが、これも同じことです。
「ひどい!」およびそれに続く「テロは良くない」の言葉は、学校占拠をした当事者にはなんの意味もありません。もっと言えば、彼らには全く届かない、ただ流れていくだけの言葉です。もちろん当事者でなければ何も言えないと言ってしまうと、そこにはもはや言論の立ち入る余地が失われてしまうわけですが、しかしやはり最後は当事者にしか語れない領域になってしまいます。
我々は第三者にしかなれません。しかし言論の場において、第三者というのは勝手になれるものではありません。自分が当事者ではないという当たり前の事実の前で、それでも第三者が当事者ではない状況に口を挟むには、その状況を第三者として引き受け、背負う覚悟が必要です。
第三者になるとはどういうことでしょう。
要素は色々あると思いますが、ものすごく簡単な事をいうと、たぶんそれは「身の程をわきまえる」ということだと思います。身の程をわきまえるというと、一般的には「でしゃばらない」とか「控えめにする」とか、基本的には萎縮する方向で使われます。でも、私は身の程をわきまえるという言葉をそういう風には使いません。
身の程をわきまえるとは、「置かれた状況に対して自分のすべきこと、あるべき態度を自覚し、その上で状況に対して明確な意思表示をして、その意思表示によって新たに生じる状況に対して責任をとること、あるいはその覚悟を持つこと、あるいはそれが出来ない時に口をつぐむ意思を持つこと」。私はそう考えます。
北オセチア学校占拠の話でいえば、一般民間人である我々は政治的な言動には直接関われません。じゃあなにがあるかというと、たぶん何も出来ることはありませんし、たぶん何も言うことはありません。べつに何か言ってもいいのですが、言うだけであればそれは「感想」の域をでません。「感想」を述べているという自覚があれば、それでかまいません。しかし、それを「感想」ではない身の程わかった「意思」にするためには、その意思に「力」が必要です。それはなにも政治を動かす為政者になれ、ということではありません。その意思を言葉に表したときに、そこにその意思を通す「説得力」が必要だということです。それは数値でもかまいません。何か証拠でもかまいません。実現可能性の見える破綻ない理論でもかまいません。でも本当に必要なことは、自ら発した言葉に責任を持つ覚悟です。言葉に説得力を持たすということは、そういうことです。
例えば、先ほどの武装勢力とロシアとの仲介役をどこか関係のない国が買って出たとしましょう。エキサイトする当事者間では旨く言葉に出来ない思い、あるいは分かっていても、当事者としては立場的にも体裁的にも口にすることの出来ない言葉があるでしょう。それを当事者ではない者の視線や立ち位置から、彼らに変わって言うとします。
そしてそこで大切なことは、彼らが「なにもわかっていないくせに!!」と胸グラを掴んで来たときに、自分はどういう立場でなぜ仲介役を買って出たのか、なぜ他人である自分がそんな意見を当事者である彼らにぶつけたのか、その明確な根拠と意思を表すことです。そしてもっとも大切なことは、口をはさんだ者として、彼らの振り上げる拳から決して逃げないことです。都合が悪くなったから逃げるなんてなしです。
当事者たちは、どこにも逃げられない切羽詰った状況があるのです。
そこには、自らの損得勘定も含めての強い「意思」が必要であり、それが「力」となり、ヨソ者の第三者である立場の者の意見を聞いてみようと思わせる「説得力」になるのです。
それだけの覚悟もないのに、さも自分はなにか意見を言っているかのように振舞うことは、逃げることの出来ない当事者に対して、あまりにも卑怯です。ただの「感想」をいってるだけなら、その但し書きをつけなくてはいけません。
しかし、第3者の言葉を当事者たちに届かせるにはどうしたらいいのでしょう。
ある時、私はアーレフ(旧オウム真理教)の出家信者達と席を同じくする機会がありました。本当は、オウム真理教時代からアーレフになってからにかけて、上裕サン(一応サン付けで)や、今は教団を去った荒木広報副部長など、そんなような人に何度か会う機会がありました。別に信者ではありませんし、誘惑されたこともありませんよ(笑)。話すと長いから割愛しますが、まあいろいろとあるわけです。
で、オウム真理教時代から生の信者と多少は触れ合う機会があったもので、ある時にアーレフ(オウム真理教)のドキュメンタリー映画の上映会に出かけ、その後に信者も含めての参加自由のフリートークの場にも参加してみました。
映画もそうですが、その後のトークショーでも目立ったのは、アーレフのメンバー(決して全員ではありませんが)の社会性のなさと、当事者としての状況理解や今後の展望というものが何もない、という事ばかりでした。アーレフ(オウム真理教)の教えが正しいか間違えているかとは別問題として、いま自分がどういう状況に置かれているのかという想像力が全く働いていない様子でした。社会性がないといえば当たりは柔らかいかもしれませんが、はっきり言えば「こいつら本物の馬鹿なんだな」と思いました。知性とは最終的には想像力ですから、想像力がないということは馬鹿と同義です。
しかしその一方で、参加していた信者以外の態度にも幻滅をしていました。その場には、アーレフの拠点になっているマンションの住人などもいたのですが、その人たちからアーレフに対する感情的な嫌悪や批判が出ることは、まあ仕方のないこととしてまだ許容できます。彼らは破防法までかけられそうになった団体が直ぐ隣にいるわけですから、不安にも不満にもなるでしょう。でもね、参加しているその他もろもろの人たちまで、終始アーレフに対する批判しか出てこないわけです。
映画の中で若い二十歳くらいの信者が登場しました。彼は出家生活の中で、出家前に友人であった訪問を受けるのですが、そこで揺れる心の言葉をもらしていました。
「やっぱり理解してもらえないのかな」
仲の良かった友人との解消されることのないすれ違いに、素直に心を揺らしていた姿でした。私は、ここにアーレフとの対話の可能性を感じました。別に出家をやめなくてもかまいません。真の理解などしあえないかもしれません。でも、立場の違う者同士がお互いの言葉に心をかたむけ、その違いや、苦しみや、憤りや、悲しみに思いを触れ合わせることが出来る可能性を感じました。せっかくアーレフのメンバーと、そうではない者が公に触れ合える機会です、そういうところから話を膨らませなくて何のフリートークの場でしょうか。
会の最後に司会者が「大変に意義のある時間だったと思います」と感想だか社交辞令だかを口にしましたが、そんなのウソです。だから「この場に意味がなかったと思う人はいますか?」という閉会直前の司会者からの質問に、私は素直に手を挙げてみました。
手を上げたのは、私一人。本気か?あんたたち。
じゃあ、いっそ何も言わなければいいのでしょうか?
私は冒頭でこう書きました。
“こういう話になると、必ず傍観する側の良識として口にされる言葉がありますね。「我々には計り知ることの出来ないそれぞれの状況がある。知ったような顔で身勝手な意見は言えない」”
そして、それに対して“私は「とりあえず」この言葉に賛同します”と。
発言をしないことは、それ自体べつに問題はありません。しかし、自分が生きるこの世界と関係したいと望むのであれば、しかるべきときに発言をしなければなりません。意見を求められた時に、答えないことは簡単です。しかし、もしその答えられない理由を問われたとして、その回答が「我々には計り知ることの出来ないそれぞれの状況がある。知ったような顔で身勝手な意見は言えない」であったのであれば、それは卑怯です。
確かに「我々には計り知ることの出来ないそれぞれの状況がある。知ったような顔で身勝手な意見は言えない」ことは確かです。しかし、それはその人が第三者に責任を持ってなろうという意思がありながら、それでも自らの発言に責任がもてないと判断した時にのみ許される言い訳です。
発言をしないことは、自らの生きる世界とのつながりを絶たれる可能性を含みます。発言をしないということは、発言をすることと同じように「意思」と「覚悟」が必要です。なぜなら、発言をしないということは、発言をしないという意思表示を暗黙に発言しているからです。
なにか問いを向けられるとしたら、その向けられた人は、当事者になるのか、第三者になるのか、それ以外の無関係な傍観者になるのか、その選択を迫られているのです。
だから、「我々には計り知ることの出来ないそれぞれの状況がある。知ったような顔で身勝手な意見は言えない」としても、その前提の上で自らはどの立場に身を置くのかを表明する必要があるし、もっと言えばどのような態度をとろうが、それをもって意思表明となってしまいます。
もしも「我々には計り知ることの出来ないそれぞれの状況がある。知ったような顔で身勝手な意見は言えない」と言ってそこで口を閉じれば、それは何も言わなかったことと同義です。つまり、「我々には計り知ることの出来ないそれぞれの状況がある。知ったような顔で身勝手な意見は言えない」という言葉は、決して「意見」などではないと言うことです。
冒頭で、私が「とりあえず」という保留付で「我々には計り知ることの出来ないそれぞれの状況がある。知ったような顔で身勝手な意見は言えない」という言葉に賛同したのは、この言葉が決して意見などではない、ということが分かっている場合のみに意味のある言葉だからです。そのことを分からずにこの言葉を使うことは、自分が何も考えていないと表明していることと同じです。
身の程とは、こうして知っていくものだと思います。
一児の父親(だった)身として、我が子をなくし泣き叫ぶ親の姿を見れば、落涙禁じえないというのは確かにそうです。しかし、この手の話にはいつも最後は口をつぐんでしまいまうことも事実です。
先日、昔の新聞がポロッと出てきて、たまたま記事に北オセチアで学校占拠をしたチェチェンの武装勢力のことが載っていました。もう随分たちますね。痛ましい事件でした。
しかしこういう話になると、必ず傍観する側の良識として口にされる言葉がありますね。
「我々には計り知ることの出来ないそれぞれの状況がある。知ったような顔で身勝手な意見は言えない」
私は、「とりあえず」この言葉に賛同します。
戦争反対でも差別反対でもなんでもいいですが、そういう話になると短絡的な感情論が必ず噴出します。曰く戦争は良くない、曰く戦争は可愛そうだ、云々・・・
人道的な立場でいえば、戦争が良いことではなく、可愛そうな現実を引き起こすことであることは当たり前です。根拠は明快で、「戦争になれば人が死に、また戦災で苦しむ人や、大切な人を失って悲しむ人がいるから」ということです。
確かにね。でも、そりゃそうですが、だからといって「戦争反対」と題目を唱えても、自分自身を戦争に反対する人と確認して自分を納得させることは出来るでしょうが、何ら事態の収束には役立ちません。むしろ短絡的な批判の言葉は、当事者を逆上させるだけです。
例えば、北オセチアで学校占拠をしたチェチェンの武装勢力の話。はたして彼らが子供を大量に殺害するようなテロリズムに走るに値する正当な根拠を持っていたかどうかはわかりません。しかし、少なくとも彼らに対して「ひどい!」と声を荒げたとして、じゃあその武装勢力の側から「お前たちは、なぜ我々が自らの命を捨ててまで武装蜂起し、子供の殺害までするのか分かるのか。我々のその苦悩を知っているのか」と問われて、彼らを論破するような言葉を口にすることができる日本人が何人いたでしょう。当事者である彼らの目を見つめながら、「テロはよくない、お前のやっていることは間違えていると」と明快な根拠を持って言える日本人は何人いたでしょう。
私の予断であることを断った上で言えば、その武装勢力に対しての「ひどい」およびそれに続く「テロは良くない」の言葉はほぼ全ては、単なる感想でしかありません。言い換えれば、言っても言わなくてもどっちでもいい言葉、ということです。別に感想をいうことはかまわないのですが、自分の言葉がそういう性質のものだという自覚もなく、なにか練り上げられた思考や論理でもあるかのような勘違いの中で、ひどく短絡的な感想が垂れ流されることに、私はとても苛立ちを覚えます。
子どもを大量に巻き込んだテロリズムは、確かに残虐であり許されることではないのかもしれません。私が殺された子供の親であれば、きっと悲しみと怒りに震え、逆上したことでしょう。
しかし、例えばチェチェンの問題は、隣国グルジアの民族紛争を混乱させたり、他のイスラム原理主義勢力の加勢につながる危険性から、ロシアも強権的な押さえ込みに必死です。でも、複雑な民族構成とイスラムの教えを信じる北カフカス地域の民衆が、帝政ロシアやソビエト時代の圧政により、自らの民族の尊厳と自由を踏みにじられてきた歴史もあります。その上で、民族の独立を望むチェチェンをはじめとした北カフカスを押さえ込むロシアの政策に、彼らもやり場のない憤りを感じているはずです。戦後、自分達の国家観や民族性というものを意識することなく生きてこられた我々には、どうしても計り知ることのできない苦悩が彼らにはあったでしょう。だから、状況は収拾されるどころか益々険悪なことになっていくのです。
それらのことを抜きに、「テロは良くない」と言うことに、いったい何の意味があるのでしょうか。もし同じ「テロは良くない」とい言葉を使ったとしても、そのチェチェンの内実を理解した上で、それでも彼らの目を見つめながら言う「テロは良くない」という言葉と、単なる感想として語られる「テロは良くない」とは、全く違う内実の言葉です。
一時期、街頭でアメリカのイラク攻撃や、イラク派兵反対の署名が行なわれていました。別にそれ自体を否定する気は毛頭ありません。しかし、私はその署名を求める人が目の前に立つと、時々質問をしました。
「何人分集めると、アメリカのイラク攻撃は中止されますか?」
その質問に誰一人としてまともに答えた活動者は一人もいませんでした。
べつに明快な回答が欲しいわけではありません。わからないならわからないでもいいのです。私が問いたかったのはそんなことではありません。私の問いの「本当の内容」はこういうことです。
「あなたがたは、いま自分がしている署名活動というものに、アメリカのイラク攻撃の阻止に対してどれだけの実効性、影響力があると計算していますか」
普通に考えれば、日本国民全員が反対の署名をしようとも、アメリカのイラク攻撃は中止されないでしょう。別にそれならそれでいいのです。ただ、いま自分の行なっている行為にどういう意味があるのか、どういう実効性があるのか、その明確な自覚や計算がないままに、「署名活動をして戦争反対を唱える」という、本来手段であるべきことが自己目的化していることにまったく自分で気づいていないまま、偉そうに間抜けな自我の垂れ流しがなされることにムカつくわけです。
無理なら無理と答えて欲しいのです。「アメリカのイラク攻撃中止は、自分達にはどうやっても無理だ。しかし無理だからといって口をつぐんでしまって、何も考えなくなることを防ぎたい。無理だからこそ、望みが薄いからこそ、その現実を忘れないために常に考える意識を持ち続けたい。だから反対の声をあげるんだ。現実に中止できるか否かは問題ではない」例えば、こんな回答がされたのであれば、私は素直に納得し、署名に協力をしたかもしれません。
北オセチアで学校占拠の話に戻りますが、これも同じことです。
「ひどい!」およびそれに続く「テロは良くない」の言葉は、学校占拠をした当事者にはなんの意味もありません。もっと言えば、彼らには全く届かない、ただ流れていくだけの言葉です。もちろん当事者でなければ何も言えないと言ってしまうと、そこにはもはや言論の立ち入る余地が失われてしまうわけですが、しかしやはり最後は当事者にしか語れない領域になってしまいます。
我々は第三者にしかなれません。しかし言論の場において、第三者というのは勝手になれるものではありません。自分が当事者ではないという当たり前の事実の前で、それでも第三者が当事者ではない状況に口を挟むには、その状況を第三者として引き受け、背負う覚悟が必要です。
第三者になるとはどういうことでしょう。
要素は色々あると思いますが、ものすごく簡単な事をいうと、たぶんそれは「身の程をわきまえる」ということだと思います。身の程をわきまえるというと、一般的には「でしゃばらない」とか「控えめにする」とか、基本的には萎縮する方向で使われます。でも、私は身の程をわきまえるという言葉をそういう風には使いません。
身の程をわきまえるとは、「置かれた状況に対して自分のすべきこと、あるべき態度を自覚し、その上で状況に対して明確な意思表示をして、その意思表示によって新たに生じる状況に対して責任をとること、あるいはその覚悟を持つこと、あるいはそれが出来ない時に口をつぐむ意思を持つこと」。私はそう考えます。
北オセチア学校占拠の話でいえば、一般民間人である我々は政治的な言動には直接関われません。じゃあなにがあるかというと、たぶん何も出来ることはありませんし、たぶん何も言うことはありません。べつに何か言ってもいいのですが、言うだけであればそれは「感想」の域をでません。「感想」を述べているという自覚があれば、それでかまいません。しかし、それを「感想」ではない身の程わかった「意思」にするためには、その意思に「力」が必要です。それはなにも政治を動かす為政者になれ、ということではありません。その意思を言葉に表したときに、そこにその意思を通す「説得力」が必要だということです。それは数値でもかまいません。何か証拠でもかまいません。実現可能性の見える破綻ない理論でもかまいません。でも本当に必要なことは、自ら発した言葉に責任を持つ覚悟です。言葉に説得力を持たすということは、そういうことです。
例えば、先ほどの武装勢力とロシアとの仲介役をどこか関係のない国が買って出たとしましょう。エキサイトする当事者間では旨く言葉に出来ない思い、あるいは分かっていても、当事者としては立場的にも体裁的にも口にすることの出来ない言葉があるでしょう。それを当事者ではない者の視線や立ち位置から、彼らに変わって言うとします。
そしてそこで大切なことは、彼らが「なにもわかっていないくせに!!」と胸グラを掴んで来たときに、自分はどういう立場でなぜ仲介役を買って出たのか、なぜ他人である自分がそんな意見を当事者である彼らにぶつけたのか、その明確な根拠と意思を表すことです。そしてもっとも大切なことは、口をはさんだ者として、彼らの振り上げる拳から決して逃げないことです。都合が悪くなったから逃げるなんてなしです。
当事者たちは、どこにも逃げられない切羽詰った状況があるのです。
そこには、自らの損得勘定も含めての強い「意思」が必要であり、それが「力」となり、ヨソ者の第三者である立場の者の意見を聞いてみようと思わせる「説得力」になるのです。
それだけの覚悟もないのに、さも自分はなにか意見を言っているかのように振舞うことは、逃げることの出来ない当事者に対して、あまりにも卑怯です。ただの「感想」をいってるだけなら、その但し書きをつけなくてはいけません。
しかし、第3者の言葉を当事者たちに届かせるにはどうしたらいいのでしょう。
ある時、私はアーレフ(旧オウム真理教)の出家信者達と席を同じくする機会がありました。本当は、オウム真理教時代からアーレフになってからにかけて、上裕サン(一応サン付けで)や、今は教団を去った荒木広報副部長など、そんなような人に何度か会う機会がありました。別に信者ではありませんし、誘惑されたこともありませんよ(笑)。話すと長いから割愛しますが、まあいろいろとあるわけです。
で、オウム真理教時代から生の信者と多少は触れ合う機会があったもので、ある時にアーレフ(オウム真理教)のドキュメンタリー映画の上映会に出かけ、その後に信者も含めての参加自由のフリートークの場にも参加してみました。
映画もそうですが、その後のトークショーでも目立ったのは、アーレフのメンバー(決して全員ではありませんが)の社会性のなさと、当事者としての状況理解や今後の展望というものが何もない、という事ばかりでした。アーレフ(オウム真理教)の教えが正しいか間違えているかとは別問題として、いま自分がどういう状況に置かれているのかという想像力が全く働いていない様子でした。社会性がないといえば当たりは柔らかいかもしれませんが、はっきり言えば「こいつら本物の馬鹿なんだな」と思いました。知性とは最終的には想像力ですから、想像力がないということは馬鹿と同義です。
しかしその一方で、参加していた信者以外の態度にも幻滅をしていました。その場には、アーレフの拠点になっているマンションの住人などもいたのですが、その人たちからアーレフに対する感情的な嫌悪や批判が出ることは、まあ仕方のないこととしてまだ許容できます。彼らは破防法までかけられそうになった団体が直ぐ隣にいるわけですから、不安にも不満にもなるでしょう。でもね、参加しているその他もろもろの人たちまで、終始アーレフに対する批判しか出てこないわけです。
映画の中で若い二十歳くらいの信者が登場しました。彼は出家生活の中で、出家前に友人であった訪問を受けるのですが、そこで揺れる心の言葉をもらしていました。
「やっぱり理解してもらえないのかな」
仲の良かった友人との解消されることのないすれ違いに、素直に心を揺らしていた姿でした。私は、ここにアーレフとの対話の可能性を感じました。別に出家をやめなくてもかまいません。真の理解などしあえないかもしれません。でも、立場の違う者同士がお互いの言葉に心をかたむけ、その違いや、苦しみや、憤りや、悲しみに思いを触れ合わせることが出来る可能性を感じました。せっかくアーレフのメンバーと、そうではない者が公に触れ合える機会です、そういうところから話を膨らませなくて何のフリートークの場でしょうか。
会の最後に司会者が「大変に意義のある時間だったと思います」と感想だか社交辞令だかを口にしましたが、そんなのウソです。だから「この場に意味がなかったと思う人はいますか?」という閉会直前の司会者からの質問に、私は素直に手を挙げてみました。
手を上げたのは、私一人。本気か?あんたたち。
じゃあ、いっそ何も言わなければいいのでしょうか?
私は冒頭でこう書きました。
“こういう話になると、必ず傍観する側の良識として口にされる言葉がありますね。「我々には計り知ることの出来ないそれぞれの状況がある。知ったような顔で身勝手な意見は言えない」”
そして、それに対して“私は「とりあえず」この言葉に賛同します”と。
発言をしないことは、それ自体べつに問題はありません。しかし、自分が生きるこの世界と関係したいと望むのであれば、しかるべきときに発言をしなければなりません。意見を求められた時に、答えないことは簡単です。しかし、もしその答えられない理由を問われたとして、その回答が「我々には計り知ることの出来ないそれぞれの状況がある。知ったような顔で身勝手な意見は言えない」であったのであれば、それは卑怯です。
確かに「我々には計り知ることの出来ないそれぞれの状況がある。知ったような顔で身勝手な意見は言えない」ことは確かです。しかし、それはその人が第三者に責任を持ってなろうという意思がありながら、それでも自らの発言に責任がもてないと判断した時にのみ許される言い訳です。
発言をしないことは、自らの生きる世界とのつながりを絶たれる可能性を含みます。発言をしないということは、発言をすることと同じように「意思」と「覚悟」が必要です。なぜなら、発言をしないということは、発言をしないという意思表示を暗黙に発言しているからです。
なにか問いを向けられるとしたら、その向けられた人は、当事者になるのか、第三者になるのか、それ以外の無関係な傍観者になるのか、その選択を迫られているのです。
だから、「我々には計り知ることの出来ないそれぞれの状況がある。知ったような顔で身勝手な意見は言えない」としても、その前提の上で自らはどの立場に身を置くのかを表明する必要があるし、もっと言えばどのような態度をとろうが、それをもって意思表明となってしまいます。
もしも「我々には計り知ることの出来ないそれぞれの状況がある。知ったような顔で身勝手な意見は言えない」と言ってそこで口を閉じれば、それは何も言わなかったことと同義です。つまり、「我々には計り知ることの出来ないそれぞれの状況がある。知ったような顔で身勝手な意見は言えない」という言葉は、決して「意見」などではないと言うことです。
冒頭で、私が「とりあえず」という保留付で「我々には計り知ることの出来ないそれぞれの状況がある。知ったような顔で身勝手な意見は言えない」という言葉に賛同したのは、この言葉が決して意見などではない、ということが分かっている場合のみに意味のある言葉だからです。そのことを分からずにこの言葉を使うことは、自分が何も考えていないと表明していることと同じです。
身の程とは、こうして知っていくものだと思います。