私を後ろから見ることは出来ない。
故に、私は私に後姿があるということを、私自身に証明することはできない。
しかし、私は私の背中を触ることができる。
私は私の後姿を鏡に映すことは出来る。
故に、私は私に後姿たる実体が存在することを、疑いようもない事実として認識している。
私は私自身に後姿があるという私自身にとって疑いようもない事実を、私自身において証明することが原理的に出来ない。
数学には一切の矛盾がないが、しかし数学は自身の無矛盾性を数学において証明することが出来ない。
ゲーデルが不完全性定理において述べたことを、概念的な範囲で言えば、まあ最初のような言いかえが出来るか。
概念として考えると、別になんだということもない。当たり前のこと。そんなことは、言われずとも子供の頃からわかっている。
私が悩まされ続けた、「自分が在るということの証明」を忘れてしまったのがいつなのかは、よく覚えていない。
結果的に、人は実感でしか生きて行くことは出来ない。数学者も、その普遍の法則を実感した、その感動の中に生きている。だからこそ、数学に限らず科学的な発想は全て思想として立ち上がる。
目をつぶれば、音は無限の広がりを持った世界として私を包み込む。遠く飛行機の飛ぶ音。子供たちのはしゃぎ声。風のそよぎ。どこかのベランダで布団を叩く音。
それぞれが絶対的な位置を占めるのではなく、すべてが関係性としてお互い寄り添い、広がりを構成する。
私は、その広がりの只中に放り出される。
私は、広がりの構成の中に入り込み、漂うように所在ない。
そっと風が私の体をなぜる。すると、私が鮮やかに浮き立つ。
私は広がりの中に漂いながら、その中に在るということの感触を感じる。
どちらが幸せかはわからない。
ただ、風を感じながらそっと体を起こし、目を開けば、眼下には光に溢れた色とりどりの世界が拡がる。
それが心地よいと感じるの限り、私は再び思い悩むことはないと思う。
気持ちよく生きていきたいなあ。
故に、私は私に後姿があるということを、私自身に証明することはできない。
しかし、私は私の背中を触ることができる。
私は私の後姿を鏡に映すことは出来る。
故に、私は私に後姿たる実体が存在することを、疑いようもない事実として認識している。
私は私自身に後姿があるという私自身にとって疑いようもない事実を、私自身において証明することが原理的に出来ない。
数学には一切の矛盾がないが、しかし数学は自身の無矛盾性を数学において証明することが出来ない。
ゲーデルが不完全性定理において述べたことを、概念的な範囲で言えば、まあ最初のような言いかえが出来るか。
概念として考えると、別になんだということもない。当たり前のこと。そんなことは、言われずとも子供の頃からわかっている。
私が悩まされ続けた、「自分が在るということの証明」を忘れてしまったのがいつなのかは、よく覚えていない。
結果的に、人は実感でしか生きて行くことは出来ない。数学者も、その普遍の法則を実感した、その感動の中に生きている。だからこそ、数学に限らず科学的な発想は全て思想として立ち上がる。
目をつぶれば、音は無限の広がりを持った世界として私を包み込む。遠く飛行機の飛ぶ音。子供たちのはしゃぎ声。風のそよぎ。どこかのベランダで布団を叩く音。
それぞれが絶対的な位置を占めるのではなく、すべてが関係性としてお互い寄り添い、広がりを構成する。
私は、その広がりの只中に放り出される。
私は、広がりの構成の中に入り込み、漂うように所在ない。
そっと風が私の体をなぜる。すると、私が鮮やかに浮き立つ。
私は広がりの中に漂いながら、その中に在るということの感触を感じる。
どちらが幸せかはわからない。
ただ、風を感じながらそっと体を起こし、目を開けば、眼下には光に溢れた色とりどりの世界が拡がる。
それが心地よいと感じるの限り、私は再び思い悩むことはないと思う。
気持ちよく生きていきたいなあ。