
アメリカ的に論理的に追求してエンタテイメントの公式に載せたら全く成立しないような映画ですが、人間性と地球、ということを本気で追求したらこうなったわけですね。
主人公クリスが宇宙ステーションについた時点ですでにいろんな部品が故障したり、隊員が3人のはずが一人は自殺したあとだったり、そうとうおかしいわけですが、そこにいないはずの子供やおネエちゃんがいるわけで、そこに死んだはずの奥さんハリーが現れると。
これがただの幻想なら普通のサイコスリラーなんですが、これが実体を伴い、ほかのクルーにも見える存在だからややこしい。ご飯食べるシーンはなかったですが、タバコは吸ってるし液体酸素も飲んでますから、消化期間は普通にあるんでしょうね。ニュートリノからできた体なので、ソラリスの海のそばでしか存在し続けられない。しかも自分が死んだ経緯を聞かされて精神的に自分の存在とは?と自問しはじめる。
他の乗組員たちもハリーの存在をそのまま認めるべきかを疑問に思うのですが、クリスは手放したくなくて哲学論議。
その後、クリスが病気になったのは、単なる知恵熱か、海からの働きかけか。今まではハリーだけだったのにうなされて亡き母親の夢を見ます。ハリーの記憶と母親の記憶は、衣装からもずっと混濁していた、という点が示唆されていますが、ハリーが最終的に消えたのは、母親にその地位を取って代わられそうだったから?と深読みしてしまいました。
最終的には、現実世界に戻ってももはや家族は死んだあとだろう、と宇宙旅行の年月が実際にどのくらいかかるものなのかわかりませんが、実家に戻って父親と再会、と思ったらこれもソラリスの海にできた島の上でのことだった、というオチ。映画冒頭でひたすら驟雨に打たれまくるクリスと呼応するかのように、家の中で天井から落ちる雨に打たれ続ける父親が印象的です。
始まってすぐのバートン元飛行士が帰宅する途中のシーンで東京の首都高速の映像が延々流れるのがシュールですね。赤坂見附のあたりと、羽田方向への分岐の標識は今でも見るような景色でした。
ちなみに頻繁に引用されるオルガン曲はJ.S.バッハのコラール「主よ我汝の名を呼ぶ」なんですが、冨田勲さんがシンセサイザーで発表した「ソラリスの海」という曲は、同じバッハでも「3声のインベンション ハ短調」なのです。紛らわしいですが曲想は似ていますね。