クライバーとウィーン・フィルの演奏会のビデオを見たことがあります。
モーツァルトの交響曲36番「リンツ」とブラームスの交響曲2番がメインだったと思います。
「リンツ」はブルーノ・ワルターのリハーサルのレコードを繰り返し聞いた大好きな曲だし、ブラームス2番もその魅力に開眼したころだったので、楽しみにして見たのですが、なんだかあんまり楽しめなかった記憶があります。
ちょっと間があいて、音だけを聞いたら、記憶にあったほど悪くないのです。
もう一度映像をみて、気づきました。「これは映像が悪いのだ」。
いや、演奏している人々そのものはちゃんとしているし、クライバーの指揮姿はいつも通り、優雅なのですが、これをコンセルトヘボウでのベートーヴェンの演奏などと比べると、映像にはっきりした違いがあるのです。
それは、リズム。
映像のスイッチングというものをどういうタイミングで行うか、どのタイミングで編集するか。
ウィーン・フィルとの演奏の映像は、この編集のポイントが、多くの場合、音楽のリズムの強拍にあるのです。
一見、これはリズム感覚的には正しいように見えます。しかし違うのです。なぜなら、映像には独自の呼吸があるからです。たとえばクライバーの指揮姿、その拍を打つ前の呼吸があって、始めてそのアクションに意味がある。
奏者の動きでも同じ。どんな音でも、その発する前の予備動作、ブレスというものが必ずあり、その瞬間を見せずに拍の頭からだけ映像をみても不完全なものを見た、という印象が残ります。
演奏がダメなのではなく、映像から受けるフラストレーションが、演奏の印象そのものを左右してしまう。恐ろしいことだと思いました。音楽に映像がついているのだから、それだけでお得、魅力は増すに違いない、というのは思い込みです。映像がよくなければ、音楽の印象はむしろ悪くなるのです。