

なんと映画を4本立て続けに上映。本番が始まったのが0時30分で、映画館を出たときには6時30分にはなっていました。
冒頭、30分ほど元シネセゾンの店員さん?の映画監督さんのトークショーがあったのですが、あまりポイントはなかったような。正直無理に呼ばなくてもよかったのに、と思ってしまいました。以下は見た順に簡単な印象を。
「勝手にしやがれ」
もう代表格のような作品なのでしょう、ご存知の人の方が多いのかも知れませんが、有名な冒頭のカーチェイス?シーンの編集のこととかを触れる事が多いので、そうとうなハードボイルドなギャング映画を連想していたのですが、むしろこれは哲学的な恋愛映画だったのですね。どうも字幕の翻訳のニュアンスが妙に反逆的な方向にもっていこうとしているようにも見えますが、自分はなぜこうするのか、なぜ愛しているのか、あるいは愛していないのか、道に迷った子供のような問い掛けに充ち満ちているような気がしました。それは映画の手法としても、人生哲学としても、恋愛論としても同じ方向を向いていたからこそ、こういう例外的な作品として結実したようにも思えます。「勝手にしやがれ」というタイトルがなければ、このようなムーブメントが日本で注目を集めるのは遅れたかも知れませんが、個人的にはあまり勝手な意訳をした邦題は好きではありません。
2本目に見たのが、「ジュテ」。
エンディングがどこかで見たような、と思ったら、これは「12モンキーズ」のヒントになった作品だったのですね。短編で、スチール構成に近い作品なのですが、タイムトリップ先の過去の世界の女性がまばたきするシーンだけがカラーで、しかもムービーになっているのが効果を上げています。ただ、これ以上長い作品を見せられてもこの手法は興味をつなぎ止められないような気もします。すでにこの作品でも同じカットの使い回しをやや見飽きた感じもしました。実際にはあれだけのスチール写真を撮るにはムービーをとるのに近い手間がかかったのではないかと思いますが。
3本目は「5時から7時のクレオ」
芸名を「クレオ」というシャンソン歌手が自分がガンなのでは、という疑惑からどんどん孤独に陥っていくのを、戦場に戻る直前の休暇中の兵士との会話の中で一個人としてのフローレンス(違った?とにかく本名)に戻ってココロを武装解除していく物語です。
もう一つ解釈を加えると、この主人公のクレオは歌手としては3枚のシングルカットはそこそこヒットしたもののその後は伸び悩んでおり、タクシーの運転手も歌を聴いた事があっても、彼女の顔を見たぐらいでは別に誰だか分かりもしない程度の歌手なのです。そのことや、仕事にかこつけて彼女のところにあまり通って来なくなった愛人のことに対するいらだちなど、彼女の精神生活はすでに破綻を来していた、と考えるべきで、病気になろうとならなかろうと、彼女はスター気取りのイヤな女であったことに変わりはなかったでしょう。それが、ガンの疑惑一つをきっかけに、「自分」は何か、を余計なものをそぎ落とす事に成功した、再生の物語なのだと思いました。
映画の内容もすばらしいのですが、中でつかわれている音楽が素晴らしい。即興で作曲家のミシェル・ルグランが弾いて見せる次回作のフレーズなど、きらめくばかりの輝きです。アニメ版「火の鳥」のサントラを初めて聞いたときがこの作曲家との出会いだったのですが、この作品を先に見ていたら、起用もうなずける話です。
最後を飾ったのが、オムニバス集の「パリところどころ」。
ヌーヴェルバーグの旗手たちが競うように、パリの土地柄にこだわって、ショートエピソードを綴っていくものです。手法的には一応ちょっと統一感を目指して、パリの各地域を説明するコメントが入ったりもするのですが、ゴダールなんかは全くそういう決まりごとを無視して勝手にやっているような部分もあり、結果的には各監督の個性が出ているようでもあります。「サンドニ街」のような、純粋コメディーの短編もあるのですが、どちらかというと人生の小さな疑問や矛盾、恐怖が日常生活の単調な流れの中に陥穽を開く、というものが多いです。「北駅」「エトワール広場」「ラ・ミュエット」などは、特にホラー要素が強く、偶然にも先日読んだばかりのルヴェルの短編集を思わせるものがありました。もしかしたら、フランス人の精神性の中にこういうショートコントへの指向性は根強いのかも知れません。