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カルロス・クライバーが指揮した唯一の音源と言われる、ベートーヴェン交響曲第6番「田園」のCDを聞きました。あれほどの人だから指揮するコンサートすべてちゃんと残ってるかと思うと、案外保存状態が良くなかったりするらしいですね。会場録音のマスターテープが傷んでしまい、発売できる状態ではなかったので、なんとクライバーが息子のために録っておいてもらったカセットテープをマスターにしてオルフェオが発売したものです。

聞くのは演奏と一緒で一気呵成。音質は最初の数分が過ぎればほとんど気にならず、むしろ表現の方に集中がいきます。

1楽章からクライバー流のテンポでぐいぐい進めていきます。何が一番特徴的かといえば、もはや乱雑とすら言えるほどのコントラバスの刻み。このテンポでよくぞ、というほどの細かい動きを弾力性を保ってキープしていきます。ここで目指されるのは一糸乱れぬ、というアンサンブルの精緻さを目指すことではなく、時にはわれわれを荒々しく翻弄する自然のふところの深さ。英国風の見事にコントロールされた庭園ではなく、ドイツの深い森なのでしょうか。

この1楽章があるから、2楽章の緩徐楽章が逆にコントラストとして生きているということが言えるかもしれません。細かいパーツとして分解して聞かせるのではなく、異なる原色の要素が自由に息づきながら、トータルとして一つの生命体をなしている、そんな印象を受ける演奏です。

この調子で万事がクライバーならではの表現、4楽章の嵐の猛々しさは荒々しくも巧妙な設計がなされ、5楽章のフレージングは序盤の丁寧なフレージングからクライマックスへと駆け抜けてゆきます。

演奏における指揮者の役割、と言うことについてはさまざまな立場があり、最も普遍的な姿勢は、「作曲者の感じたインスピレーションを再現する」という事なのだろうと思います。常々クライバーの演奏を聴くと、作曲者の発想を再現するために自らが依り代となり、作曲者になりきってそれを演じようとしているのでは、と感じる時がしばしばあります。もちろんそれをするためにはかなりの考証と読みが必要となるのですが、それを演じ切るだけの確信とそれを達成するための十分な練習が確保できたと感じる時しか、クライバーは演奏できなかったような気もします。すべてのオーケストラレパートリーで、それをできるような人はいないでしょう。クライバーの限られたレパートリーとはそのような物だった気がします。

彼の良さはそれをオーケストラの自発性を引きだしながらできるところだったでしょう。若いころにシュトゥットガルト放送交響楽団(当時の南ドイツ放送オーケストラ)を指揮した「こうもり」序曲と「魔弾の射手」序曲のリハーサルを観たことがあります。クライバーファンの多くは当時のクライバーの若さと彼の演奏の秘密はそういう緻密なリハーサルであった、という点に注目すると思いますが、僕がみていて強く感じたのは、むしろそういう彼の若さの空回りぶりであったような気がします。言葉を次々に繰り出して注文をつけ続けるクライバーに対して、当時のベテラン楽員たちは「またか」「そんなこと言われないでも分かってるよ」ぐらいのうんざりした表情を何度も見せます。練習の空気は決して友好的でも、熱いものでもない。当時かれはまだ、『文学青年気取りの青二才」でしかなかったのだと、そう見えるのですが。

しかし同じことを言い、同じ表現を目指しても、それが自然な説得力をもって出来るようになったのが、このバイエルン国立歌劇場時代だった、そんな気がしてなりません。