映画館にいろんな作品を見に行くたびに「ロボッツ」の予告編がかかっているのだ。予告編を見るたびにげんなりする。映画が実際に公開されても、なんか後悔しそうでなかなか見に行く気になれないのだ。その理由を自分なりに考えてみた。
要するに、ロボットを主人公にして映画を作ることの必然性とロボットたちが住んでいる世界観に対して感じる違和感、とでも言ったらいいだろうか。ロボットがロボットである、ということの宿命や限界を感じるためには、「主人、創造主としての人間」の世界があることが必然であると思うのだけど、そこが全く切り離されてしまっていることに対する抵抗感、というのが一番正確だと思う。ロボット同士が家庭を作ったり、親子関係があったり、ということを無条件に受け入れてしまったら、すでにそれはロボットモノの物語であることを放棄しているに等しいと思うのだ。
なぜなら、ロボットは人間に似た形をしているけれども、人間ではないから。家族の情愛とか、感情とかを持っているのが当たり前ならば、すでにそれはロボットじゃないんだ。そういう世界でストーリーを作りたいんなら、ロボットモノでなく、動物ものでも、植物モノでも、昆虫モノでも、魚モノでも、何でも出来るじゃないか。なんでわざわざロボットを題材に選ぶんだろう。それならばトースターの冒険の方が擬人化されたモノとして割り切れるじゃないか。決して出来は良くなかったが「AI」でもその一線はきっちり描いていたと思う。
そんなわけで、映像としてはいかにものCGモノのこの「ロボッツ」、予告編を見ただけでげんなりしてしまったのである。もしそれでも行って見る価値があると思った方がいたら、ぜひ教えていただきたい。
要するに、ロボットを主人公にして映画を作ることの必然性とロボットたちが住んでいる世界観に対して感じる違和感、とでも言ったらいいだろうか。ロボットがロボットである、ということの宿命や限界を感じるためには、「主人、創造主としての人間」の世界があることが必然であると思うのだけど、そこが全く切り離されてしまっていることに対する抵抗感、というのが一番正確だと思う。ロボット同士が家庭を作ったり、親子関係があったり、ということを無条件に受け入れてしまったら、すでにそれはロボットモノの物語であることを放棄しているに等しいと思うのだ。
なぜなら、ロボットは人間に似た形をしているけれども、人間ではないから。家族の情愛とか、感情とかを持っているのが当たり前ならば、すでにそれはロボットじゃないんだ。そういう世界でストーリーを作りたいんなら、ロボットモノでなく、動物ものでも、植物モノでも、昆虫モノでも、魚モノでも、何でも出来るじゃないか。なんでわざわざロボットを題材に選ぶんだろう。それならばトースターの冒険の方が擬人化されたモノとして割り切れるじゃないか。決して出来は良くなかったが「AI」でもその一線はきっちり描いていたと思う。
そんなわけで、映像としてはいかにものCGモノのこの「ロボッツ」、予告編を見ただけでげんなりしてしまったのである。もしそれでも行って見る価値があると思った方がいたら、ぜひ教えていただきたい。