クラシカ・ジャパンで放送されたカラヤンとミラノ・スカラ座のヴェルディ「レクイエム」を見た。
1979年のベルリン・フィルとの来日公演での普門館でのライブをFMで聞いてこの曲にはまった記憶があったので、懐かしかったのだが、一番面白かったのは何といってもヒゲのないパヴァロッティだろう。1967年というともう40年近く前か。近年太り過ぎでもうオペラは出来ないなどと言われているパヴァロッティも、まだまだ若手の時代だろう。20過ぎくらいか。譜面を手持ち、ということはこの曲はそれほど自家薬籠中のモノとはしてなかったのだろうな。女声ソリスト二人は暗譜なのに。それでも声は張りがあるし、真摯な歌いぶりは好感が持てる。横には来日公演でもパスを務めたニコライ・ギャウロフが。でも若い。しかもずっとこの人は直らなかったけど「Mors stupebit」の音程がよくないんだよなぁ。
最近アルノンクールとかガーディナー、あるいはチェリビダッケの演奏で見られるように、この曲のとらえ方として、ポリフォニーの伝統を意識したマンゾーニ追悼のための宗教曲としての本来の目的を再発見する試みがあるが、この演奏に関してはそういう部分よりはよりダイナミズムやオペラ的なマス感を重視したものと言えるだろう。
ちょっとダイナミックレンジに録音がついていってない面があり、「怒りの日」の盛り上がりどころで急にボリュームが小さくなったりするのにはちょっと残念な部分も。あと、映像と音があっていない部分も散見され、カメラもカットの途中で乱暴な振り回し方をしたり、当時のイタリアのテレビ技術はこんなものなのかなぁ、と思った。
当時はカラヤンもあまりカッコつけてばかりではなく、ちゃんと目を開けて指揮してる。もちろん手兵のベルリン・フィルでなかった、ということもあるのだろうが。他のビデオも見てつねづね思うことなのだが、カラヤンってボディアクションが大きいところはあまり演奏の本質と関係ないところで、じっさいそれを見ながら演奏しようと思うとリズムが崩れると思うのだけど、それってカラヤンはリズム感が悪い、ということになるのだろうか。ずいぶん最晩年のビデオ作品まで、そういう映像のリズムについてはカラヤンの作品はいまいちなものが多かった。
本当の最晩年になるまではテンポは速いままだったし、逆にフレージングの呼吸はそれほど深くないし、身振りを見てても、音楽についての具体的なイメージを伝えるためにそれをしている感じはしないのだなぁ。そういうところはクライバーとか、チェリビダッケは自分の表現したい部分をコミュニケートするタイプだったなぁと思う。カラヤンというのはそういう意味でクラシックの宣伝塔的な立場であると同時に有無を言わせずオーケストラを従える絶対権力者のイメージを体現していた部分もあるかも知れない。
1979年のベルリン・フィルとの来日公演での普門館でのライブをFMで聞いてこの曲にはまった記憶があったので、懐かしかったのだが、一番面白かったのは何といってもヒゲのないパヴァロッティだろう。1967年というともう40年近く前か。近年太り過ぎでもうオペラは出来ないなどと言われているパヴァロッティも、まだまだ若手の時代だろう。20過ぎくらいか。譜面を手持ち、ということはこの曲はそれほど自家薬籠中のモノとはしてなかったのだろうな。女声ソリスト二人は暗譜なのに。それでも声は張りがあるし、真摯な歌いぶりは好感が持てる。横には来日公演でもパスを務めたニコライ・ギャウロフが。でも若い。しかもずっとこの人は直らなかったけど「Mors stupebit」の音程がよくないんだよなぁ。
最近アルノンクールとかガーディナー、あるいはチェリビダッケの演奏で見られるように、この曲のとらえ方として、ポリフォニーの伝統を意識したマンゾーニ追悼のための宗教曲としての本来の目的を再発見する試みがあるが、この演奏に関してはそういう部分よりはよりダイナミズムやオペラ的なマス感を重視したものと言えるだろう。
ちょっとダイナミックレンジに録音がついていってない面があり、「怒りの日」の盛り上がりどころで急にボリュームが小さくなったりするのにはちょっと残念な部分も。あと、映像と音があっていない部分も散見され、カメラもカットの途中で乱暴な振り回し方をしたり、当時のイタリアのテレビ技術はこんなものなのかなぁ、と思った。
当時はカラヤンもあまりカッコつけてばかりではなく、ちゃんと目を開けて指揮してる。もちろん手兵のベルリン・フィルでなかった、ということもあるのだろうが。他のビデオも見てつねづね思うことなのだが、カラヤンってボディアクションが大きいところはあまり演奏の本質と関係ないところで、じっさいそれを見ながら演奏しようと思うとリズムが崩れると思うのだけど、それってカラヤンはリズム感が悪い、ということになるのだろうか。ずいぶん最晩年のビデオ作品まで、そういう映像のリズムについてはカラヤンの作品はいまいちなものが多かった。
本当の最晩年になるまではテンポは速いままだったし、逆にフレージングの呼吸はそれほど深くないし、身振りを見てても、音楽についての具体的なイメージを伝えるためにそれをしている感じはしないのだなぁ。そういうところはクライバーとか、チェリビダッケは自分の表現したい部分をコミュニケートするタイプだったなぁと思う。カラヤンというのはそういう意味でクラシックの宣伝塔的な立場であると同時に有無を言わせずオーケストラを従える絶対権力者のイメージを体現していた部分もあるかも知れない。