映画のサントラのことを考えていたら、音楽のスタイルと内容の継承という事について気づいた事がある。
ジョン・ウィリアムズの「スターウォーズ」「未知との遭遇」のサントラが売れて以来、映画のサントラでフルオーケストラの壮大な曲を使う事はごく普通になったように思える。ダース・ベイダーのテーマやらレイヤ姫のテーマなど、モチーフを使いながら、劇のあるシーンのイメージを作っていく手法は、映像とともに効果を上げながら、音楽単独で聞いても、特定の映像を連想させるだけにとどまらず、音楽としての自律性を獲得するようにも思われる。
事実、使用している楽器の種類で考えたら、マーラーやR.シュトラウスとなんら変わることのない世界が、映画のスクリーンでは展開しているのである。モチーフ的な使用法はすでに「シェエラザード」や「英雄の生涯」、ワーグナーの舞台用作品のかずかずで達成されていることにすぎない。今のところ、スクリーン用にフルオーケストラを使ってサントラを書く、という行為は著しくアナクロで、クラシック的な行いなのだと思う。そこにあるのは、音楽として完結しようとする意思があるかないか、の違いだけではないか。
もうずいぶん長い事、クラシック音楽の衰退について語られている。現代音楽がもしもクラシック音楽の進化した形なのだとしたら、それはもはやマスとしての聴衆のためのものではなくなっているのだろう。哲学的すぎたり、技巧的すぎたり、抽象的すぎたり、個人的すぎたり。
だが、それはクラシック音楽、というものの規定次第なのだな、と思うようになった。従来の枠組みでは、その時代に流行った、最先端のものが常にクラシック音楽だったのだ。つまり、さかのぼってそれぞれの時代を現在形で生きている人々にとっては、同時代人の音楽は「クラシック」音楽ではないのではないか。そう考えると、現代音楽、というジャンル自体を規定する事がナンセンスである事にも気づく。クラシック音楽の継承を指向しようとしまいと、それが「現代の」音楽である事から逃れられるわけではない。逆に言うと、クラシック音楽という幻想を気づき上げてきたのが、音楽学校・音楽大学、というトレーニングのシステムなのではないか。
習い事としてのピアノやバイオリン、声楽、それらはかつてクラシック音楽から派生したものでありながら、テクニック・テクノロジーとしては現代の音楽に全く流用可能である。ただ、そこに過去の曲があり、それを弾きこなすためにある約束事で様式を規定しているだけのことなのだろう。
だから、どうだ、というような結論の話ではない。ただ腑に落ちただけなのだけど。最近のWe will rock youの扱われ方とか、ABBAの「ママミア」などのミュージカル、カバー、リバイバルのブームなどの傾向を見ていると、ロック・ポップスと呼ばれたジャンル自体が「クラシック化」を逃れる事は出来なかったのだ、ということがわかってきた。
ジョン・ウィリアムズの「スターウォーズ」「未知との遭遇」のサントラが売れて以来、映画のサントラでフルオーケストラの壮大な曲を使う事はごく普通になったように思える。ダース・ベイダーのテーマやらレイヤ姫のテーマなど、モチーフを使いながら、劇のあるシーンのイメージを作っていく手法は、映像とともに効果を上げながら、音楽単独で聞いても、特定の映像を連想させるだけにとどまらず、音楽としての自律性を獲得するようにも思われる。
事実、使用している楽器の種類で考えたら、マーラーやR.シュトラウスとなんら変わることのない世界が、映画のスクリーンでは展開しているのである。モチーフ的な使用法はすでに「シェエラザード」や「英雄の生涯」、ワーグナーの舞台用作品のかずかずで達成されていることにすぎない。今のところ、スクリーン用にフルオーケストラを使ってサントラを書く、という行為は著しくアナクロで、クラシック的な行いなのだと思う。そこにあるのは、音楽として完結しようとする意思があるかないか、の違いだけではないか。
もうずいぶん長い事、クラシック音楽の衰退について語られている。現代音楽がもしもクラシック音楽の進化した形なのだとしたら、それはもはやマスとしての聴衆のためのものではなくなっているのだろう。哲学的すぎたり、技巧的すぎたり、抽象的すぎたり、個人的すぎたり。
だが、それはクラシック音楽、というものの規定次第なのだな、と思うようになった。従来の枠組みでは、その時代に流行った、最先端のものが常にクラシック音楽だったのだ。つまり、さかのぼってそれぞれの時代を現在形で生きている人々にとっては、同時代人の音楽は「クラシック」音楽ではないのではないか。そう考えると、現代音楽、というジャンル自体を規定する事がナンセンスである事にも気づく。クラシック音楽の継承を指向しようとしまいと、それが「現代の」音楽である事から逃れられるわけではない。逆に言うと、クラシック音楽という幻想を気づき上げてきたのが、音楽学校・音楽大学、というトレーニングのシステムなのではないか。
習い事としてのピアノやバイオリン、声楽、それらはかつてクラシック音楽から派生したものでありながら、テクニック・テクノロジーとしては現代の音楽に全く流用可能である。ただ、そこに過去の曲があり、それを弾きこなすためにある約束事で様式を規定しているだけのことなのだろう。
だから、どうだ、というような結論の話ではない。ただ腑に落ちただけなのだけど。最近のWe will rock youの扱われ方とか、ABBAの「ママミア」などのミュージカル、カバー、リバイバルのブームなどの傾向を見ていると、ロック・ポップスと呼ばれたジャンル自体が「クラシック化」を逃れる事は出来なかったのだ、ということがわかってきた。