今度合唱団でモーツァルトの「戴冠式ミサ」をやることになり、練習している。
高校時代にも一度やったのだがそのときは難しいクレドを飛ばしたりして、かなり突貫工事でやったので、改めて練習すると音を間違えて取っていたのが分かったり、いろいろと発見がある。その中でも難しいのは、ポリフォニー的処理を明快に出すことと、単純なハーモニーを正しく響かせるところだ。
モーツァルトと言うのは、オーストリアのザルツブルグ出身だから、ドイツ文化圏にどっぷりつかっているように思われることもあるが、実はイタリアで過ごした時間も長く、オペラなどはイタリア語の台本に曲をつけたものも多い。宗教曲などにおいても、バッハ的というよりはパレストリーナなどのイタリア・ルネッサンス期の作曲家のような軽めの声で表現したほうがいいのではと思えるときがある。きちんと合ったときの響きの壮麗さ、言葉の響き合いの妙味は、声を使ったシンフォニーと言っても過言ではない。
伴奏にオーケストラがついたりしているから、つい大声でどなって、対抗しようとしてしまいがちだが、実はそれをやってしまうと、楽曲の魅力が台無しになる難曲だ。ハ短調の大ミサにもいつか挑戦してみたい。
高校時代にも一度やったのだがそのときは難しいクレドを飛ばしたりして、かなり突貫工事でやったので、改めて練習すると音を間違えて取っていたのが分かったり、いろいろと発見がある。その中でも難しいのは、ポリフォニー的処理を明快に出すことと、単純なハーモニーを正しく響かせるところだ。
モーツァルトと言うのは、オーストリアのザルツブルグ出身だから、ドイツ文化圏にどっぷりつかっているように思われることもあるが、実はイタリアで過ごした時間も長く、オペラなどはイタリア語の台本に曲をつけたものも多い。宗教曲などにおいても、バッハ的というよりはパレストリーナなどのイタリア・ルネッサンス期の作曲家のような軽めの声で表現したほうがいいのではと思えるときがある。きちんと合ったときの響きの壮麗さ、言葉の響き合いの妙味は、声を使ったシンフォニーと言っても過言ではない。
伴奏にオーケストラがついたりしているから、つい大声でどなって、対抗しようとしてしまいがちだが、実はそれをやってしまうと、楽曲の魅力が台無しになる難曲だ。ハ短調の大ミサにもいつか挑戦してみたい。