昨日一日、マイケル・ジャクソン一色の世の中。NHKのニュース7まで、「M・ジャクソン容疑者の罪状」みたいなタイトルで巨大なパネルを掲げて、10の罪状について解説していたが、無罪の評決が下った段階で、あのパネルはないだろうとおもった。まあ、ほぼ有罪になるだろうと想定して、見切り発車して作ってしまったパネルをお蔵にするのはもったいない、という発想だろうか。せめて、「元容疑者」ぐらいの言い方はできないものか。

また、マスコミが「無罪は無実ということではない」とか、「今後の活動は困難に」とか発言しているが、そんなのあんたらが決めることか、とあきれた。

どっちかというと、こういうときに支配するのは、「有罪になってくれたほうが面白かったのに」「なんかお金があってすき放題やっているやつはむかつく」程度の、ねたみ・そねみに基づく野次馬精神であって、それを、マスコミという一見社会正義の代表者であるかのようなオブラートでくるんだもっともらしい意見で、自分のもって行きたい方向に強引にリードするワイドショーの作りは、正直言って見苦しい。

「朝まで生テレビ」がいつのまにかつまらなくなったのと同様、いつからかそうなってしまったのか、テレビ番組の討論は、あらかじめ司会者が想定している範囲でしか事態が展開しない、自由を装った窮屈さが露呈するものばかりだ。

司法の場で無罪ならば、それは無罪だと国家が認めたからにほかならない。それが不満ならばそういう司法の仕組みをとっている社会機構に対して異議をとなえるだけでよかろう。それを言う度胸がないなら、黙っているほうが潔い。