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私が弓術を習得しようと考えた本来の問題に、先生はここでとうとう触れる
に至ったが、私はそれでまだ満足しなかった。そこで私は、「無になって
しまわなければならないと言われるが、それではだれが射るのですか」と尋
ねた。すると先生の答はこうである。「あなたの代りにだれが射るかが
分かるようになったなら、あなたにはもう師匠が要らなくなる。経験してか
らでなけれぽ理解のできないことを、言葉でどのように説明すべきであろう
か。仏陀が射るのだと言おうか。この場合、どんな知識や口真似も、あなた
にとって何の役に立とう。それよりむしろ精神を集中して、自分をまず外か
ら内へ向け、その内をも次第に視野から失うことをお習いなさい」
先生はこの深い集中に到達する仕方を教えた。弓を射る前の一時間はでき
こるだけ静かにしていて心を凝らし、正しい呼吸によって心中を平らかにし、
外部のあらゆる影響から次第に身を任して行き、さてそれから冷静に弓を引
き、その他はすべて成るがままにまかせておく。そのようにして次第に、
完全な無我の境に近い状態、したがって無我の境に移りうる状態になる。矢
が放たれて緊張が弛み、無限の力が活動に入った時に初めて、ふたたび我に
引き戻されるのである。

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「あなたは無心になろうと努めている。つまりあなたは故意に無心なのであ
る。それではこれ以上進むはずはない」こう言って先生は私を戒めた。それ
に対して私が「少なくとも無心になるっもりにならなければならないでしょ
う。さもなければ無心ということがどうして起こるのか、私には分からない
のですから」と答えると、先生は途方にくれて、答える術を知らなかった。
人づてに聞いた話だが、先生はそのころ、私といううるさい質問者を満足さ
せうるものが引き出せるかも知れないという希望をもって、日本語で書かれ
た哲学の教科書を数冊手に入れた。その後しばらく経って、先生は首を振り
ながらその本を投げ出し、こんなものを職業として読まなければならない私
から精神的には碌なことは期待できないというわけが大分わかって来たと、
漏らしたそうである。

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このようにして四年の後、先生は私たちにいよいよ最後の課題を与えるべ
きだと認める日が来た。それは的を射ることである。それまで的の代りに使
っていたのは、固く束ねた大きな藁束で、それをニメートルほどの距離に置
くのだから、いやでも中たるはずであった。今度は私たちは、たっぷり六十
メートルも離れた的を前にして立たされた。先生は私たちに、これまで稽古
したことをただ繰り返すようにと勧めた。私はさっそく、的に中てるには弓
をどう持てばいいかを尋ねたことは言うまでもない。「的はどうでも構わな
いから、これまでど同様に射なさい」と先生は答えられた。私は中てるとな
ればどうしても狙わないわけにいかないと返した。すると先生は声をはげま
して「いや、その狙うということがいけない。的のことも、中てることも、
その他どんなことも考えてはならない。弓を引いて、矢が離れるまで待って
いなさい。他のことはすべて成るがままにしておくのです」と答えられた。
そう言って先生は弓を執り、引き絞って射放した。矢は的のまん中にとまっ
ていた。それから先生は私に向かって言われた。「私のやり方をよく視てい
ましたか。仏陀が瞑想にふけっている絵にあるように、私が目をほとんど閉
じていたのを、あなたは見ましたか。私は的が次第にぼやけて見えるほど目
を閉じる。すると的は私の方へ近づいて来るように思われる。そうしてそれ
は私と一体になる。これは心を深く凝らさなければ達せられないことである。
的が私と一体になるならば、それは私が仏陀と一体になることを意味する。
そして私が仏陀と一体になれば、矢は有と非有の不動の中心に、したがって
また的の中心に在ることになる。矢が中心に在るーこれをわれわれの目覚め
た意識をもって解釈すれば、矢は中心から出て中心に入るのである。それゆ
えあなたは的を狙わずに自分自身を狙いなさい。するとあなたはあなた自身
と仏陀と的とを同時に射中てます」私は先生の言われた通りにやってみよう
と試みた。

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すると先生はついに、私の行き悩みは単に不信のせいだと明言した。「的を
狙わずに射中てることができるということを、あなたは承服しようとしない。
それならばあなたを助けて先へ進ませるには、最後の手段があるだけである。
それはあまり使いたくない手ではあるが」そして先生は私に、その夜あら
ためて訪問するようにと言われた。

九時ごろ私は先生の家へ伺った。私は先生のところへ通された。先生は私
を招じて腰かけさせたまま、顧みなかった。しばらくしてから先生は立ちあ
がり、ついて来るようにと目配せした。私たちは先生の家の横にある広い道
場に入った。先生は編針のように細長い一本の蚊取線香に火をともして、そ
れをあずちの中ほどにある的の前の砂に立てた。それから私たちは射る場所
へ来た。先生は光をまともに受けて立っているので、まばゆいほど明るく見
える。しかし的はまっ暗なところにあり、蚊取線香の微かに光る一点は非常
に小さいので、なかなかそのありかが分からないくらいである。先生は先刻
から一語も発せずに、自分の弓と二本の矢を執った。第一の矢が射られた。
発止という音で、命中したことが分かった。第二の矢も音を立てて打ちこま
れた。先生は私を促して、射られた二本の矢をあらためさせた。第一の矢は
みごと的のまん中に立ち、第二の矢は第一の矢の筈に中たってそれを二つに
割いていた。私はそれを元の場所へ持って来た。先生はそれを見て考えこん
でいたが、やがて次のように言われた。「私はこの道場で三十年も稽古をし
ていて暗い時でも的がどの辺にあるかは分かっているはずだから、一本目の
矢が的のまん中に中たったのはさほど見事な出来ばえでもないと、あなたは
考えられるであろう。それだけならばいかにももっともかも知れない。しか
し、ニ本目の矢はどう見られるか。これは私から出たのでもなけれぽ、私が
中てたのでもない。そこで、こんな暗さで一体狙うことができるものか、よ
く考えてごらんなさい。それでもまだあなたは、狙わずには中てられぬと言
い張られるか。まあ私たちは、的の前では仏陀の前に頭を下げる時と同じ気
持になろうではありませんか」

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そして私が自分でも中てることはまったく二の次であると考えるようになる
と、先生が完全な同意を示す矢は、次第にその数を増して来た。矢を射ると
き自分の周りにどんな事が起ころうと、少しも気に懸からなくなった。私が
射る時に二つの目が、あるいはそれ以上の目が私を見ているかどうかという
ことは頭に入らなかった。のみならず先生が褒めるか既すかということさえ、
私に次第に刺激を与えなくなった。実に、射られるということがどんな意味
か、私は今こそ知ったのである。

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引用:日本の弓術(オイゲン・へリゲル)