「悟り」とは、何事にも捕らわれず、ゆえに何事にも繋がることができる状態です。
何事にも繋がる「悟り」は、現象創出の必須条件です。
現象創出がピンと来なければ、願望実現という言葉でも可で、言葉は選びません。
「何に繋がりたいのか?」
「何が望みなのか?」
「何を手に入れたいのか?」
パナシアの現象創出は、特定の「目標」に対して行なう訳ですが、その目標に対する捕らわれない状況を部分的に作り上げ、「部分悟り」の状態を作り出します。
ゆえに、「満たされながら、悟って行く。」という所以です。
ゴールは悟りではありません。
悟りがゴールであるはずがありません。
悟りは、スタートラインです。
よりよく生きるために、望むものと繋がって行く。
積極的に望むものと相対し、縁を繋ぐのですが、恋愛同様、相思相愛になる必要があります。
感覚・情動がゼロ化できている状態のみで、全てを適えることはできません。
はじめから繋がっていたからこそ、無用なもの(執着)をゼロ化すれば、現象化が引き起こされます。
はじめから繋がっていない人は、何も起こりません。
それが実力であり、現実です。
それこそ、「悟り」でさえ!
故に、我々に必要なことは、行動し、実践し、経験とういう智慧と新たな知識を養うことです。
世を捨て、世相から離れれば、「悟り」易い環境が整いますが、目的が「悟り」である以上、それ以外のモノは手に入りにくいのです。
しかし、我々は世俗に生き、娑婆でよりよく生きるために、どうするか?どのように結果を出すのか?が重要であり、肝要です。
「悟り」も一つの状態であり、処方箋だとすれば、宗教チックに考える必要もなく、PCやスマホを使いこなすべく、利用することに留意できます。
「思考の現実化」
まるで、パラドックスであるかのように、「欲」を活かし、「欲」の中の執着を取り除きます。
それが一元的思考であり、外界と自己の一元化を推し進めます。
望むものを見つけ、そこに意識を持っていくことが「縁」であるなら、縁を繋ぐにはコツと工夫が必要です。
本人に備わっている現時点でのリソースにより、相手も選ぶ権利があります。
相思相愛でなくとも、お友達には成れるかも知れませんね。
いえいえ、貴方に寄り添う部下や秘書、姉、弟になってくれるかも・・・。
呼びかけ、それが、応えることで、天の声を確認します。
あるいは、相思相愛になりたければ、天にその手段を教えてもらえば良い訳です。
手段にも繋がれる。(人のフンドシで相撲をとればよい。)
それ故、可能性は無限とも言います。
難しいと言えば難しい、易しいといえば易しい。
自分だと思っていたものが、自分ではなく、単なる錯覚であったと気づけば、「欲」も幻想かも知れません。
しかし、「欲」が、我々が本来の自分となるための、プロセスであり、真なる願いであるならば、「欲」さえも単なる通過点ではありません。