私は、多くの矛盾を抱えながら生きてきました。
「どうしたら、お父さん、お母さんが喜んでくれるのだろう」
「どうしたら、大人から怒られなくて済むのだろう」
「どうしたら、嫌われないですむのだろう」
自分の湧き上がるような意志で考えた時、または、親の期待に応える方法を上手く身につけ、自分が望んで、行動するときは大きな成果を上げました。
しかし、周囲の目を気にし(恐怖、不安)、やりたくない(逃げ出したい)という想いを押し殺すしか術が見つからなかったとき、我慢しながら遣り通すという道を選んできました。
交流分析で言うなら、私がチャイルドで、相手がペアレントの時に、この信じ込みが出現しました。
平常時には、隠れていた人格が表出する訳です。
「あるがままに生きる!」
どんな環境でも、どんな人の前でも、そのままあるがままの意識でいること。
決して、人前で失礼な振る舞いや礼儀をわきまえないということではありません。
人前でどんな演技をしようとも、心の中は普段と変わらない状態であるということです。
自分が何者であるかを知るには、この中道である意識状態を目指す必要があります。
あらゆる賢者が、中道、中庸を重んじるには、それなりの理由があります。
己を見極めることつまり「海の悟り」です。
トマトが、自分で勘違いをしリンゴの木を目指し、美味しいリンゴを実らせようと努力するのではなく、己がトマトであったことを知るのが「海の悟り」です。
トマトは、季節を選び、適度な栄養を与えれば、なんの苦労も努力もなく、実をつけることでしょう。
此処までが、「海の悟り」です。
「空の悟り」は、トマトがより能力を発揮する条件や環境を整え、多くの人が喜ぶ美味しい実を沢山実らせる術を学び実践することです。
「あるがまま」で、豊かになる方法は存在します。
ダイヤやサファイアも磨かなければ、価値はそれなりですが、確りと磨き、輝きが増すカットを加えれば、価値は数倍に膨れ上がります。
あのドラッカーでさえ、「成功したければ自分が好き(得意)なことをやれ」と言っています。
※単なる好き、嫌いではなく、どんな分野でも自分なりの視点や得意な方法を見出す(イノベーション)ことが可能であるという意味で捉えます。
あるがままという生き方が、何もすることなく、ただ漠然と人生を送ることだとすれば、単に我執という煩悩を捨てた状態であり、または、世を捨て、世間から隔絶し逃げの人生を送るようなものです。
そこに、「よりよく生きる」という考えはありません。
私達人間は、地球の進化を生き抜いてきた動物です。
どんな環境(問題)にも対応し、生き延びてきました。
我々のDNAには、困難や環境に対応できる能力を発動する力が組み込まれており、自然に適応しながら、新たな能力を開花させ「よりよく生きてきた」歴史が存在します。
様々な賢者達は、その力を「神」または「仏性」と呼び、自らの内や空間から答えを導き出しました。
「神」は、私達自身の中に存在し、その力は眠っています。
自らがそのポテンシャルに気づき、見出そうとしない限り、大きな力を呼び覚ますことはできません。
そういう意味では、左脳の果たすべき役割は大きく、全ての脳がその得意とする能力を発揮するコーディネーターが左脳であると言えます。
心理分野では、信じ込みを無くし、新たな信念に書き換えることを「修正」と呼びますが、最近は、この言葉がなじまなくなりました。
前回のブログで書きましたが、そこにある不要な意識を取り除くことで、十分であることがその理由です。
セドナ・メソッドのような「手放す」という感覚が近いでしょう。
私達の意識の中には、既に役立つ信念が存在し、その意識は外界を通して、出会いを演出します。
いわゆる「縁」です。
その妨げとなるのが、我執であり煩悩です。
人の為ではなく、自分の為に、生き始めたとき隠されていた「縁」が起こり人生が流れ始めます。
その流れを作り出すのも、妨げるのも自分自身でしかありません。
「どうしたら、お父さん、お母さんが喜んでくれるのだろう」
「どうしたら、大人から怒られなくて済むのだろう」
「どうしたら、嫌われないですむのだろう」
自分の湧き上がるような意志で考えた時、または、親の期待に応える方法を上手く身につけ、自分が望んで、行動するときは大きな成果を上げました。
しかし、周囲の目を気にし(恐怖、不安)、やりたくない(逃げ出したい)という想いを押し殺すしか術が見つからなかったとき、我慢しながら遣り通すという道を選んできました。
交流分析で言うなら、私がチャイルドで、相手がペアレントの時に、この信じ込みが出現しました。
平常時には、隠れていた人格が表出する訳です。
「あるがままに生きる!」
どんな環境でも、どんな人の前でも、そのままあるがままの意識でいること。
決して、人前で失礼な振る舞いや礼儀をわきまえないということではありません。
人前でどんな演技をしようとも、心の中は普段と変わらない状態であるということです。
自分が何者であるかを知るには、この中道である意識状態を目指す必要があります。
あらゆる賢者が、中道、中庸を重んじるには、それなりの理由があります。
己を見極めることつまり「海の悟り」です。
トマトが、自分で勘違いをしリンゴの木を目指し、美味しいリンゴを実らせようと努力するのではなく、己がトマトであったことを知るのが「海の悟り」です。
トマトは、季節を選び、適度な栄養を与えれば、なんの苦労も努力もなく、実をつけることでしょう。
此処までが、「海の悟り」です。
「空の悟り」は、トマトがより能力を発揮する条件や環境を整え、多くの人が喜ぶ美味しい実を沢山実らせる術を学び実践することです。
「あるがまま」で、豊かになる方法は存在します。
ダイヤやサファイアも磨かなければ、価値はそれなりですが、確りと磨き、輝きが増すカットを加えれば、価値は数倍に膨れ上がります。
あのドラッカーでさえ、「成功したければ自分が好き(得意)なことをやれ」と言っています。
※単なる好き、嫌いではなく、どんな分野でも自分なりの視点や得意な方法を見出す(イノベーション)ことが可能であるという意味で捉えます。
あるがままという生き方が、何もすることなく、ただ漠然と人生を送ることだとすれば、単に我執という煩悩を捨てた状態であり、または、世を捨て、世間から隔絶し逃げの人生を送るようなものです。
そこに、「よりよく生きる」という考えはありません。
私達人間は、地球の進化を生き抜いてきた動物です。
どんな環境(問題)にも対応し、生き延びてきました。
我々のDNAには、困難や環境に対応できる能力を発動する力が組み込まれており、自然に適応しながら、新たな能力を開花させ「よりよく生きてきた」歴史が存在します。
様々な賢者達は、その力を「神」または「仏性」と呼び、自らの内や空間から答えを導き出しました。
「神」は、私達自身の中に存在し、その力は眠っています。
自らがそのポテンシャルに気づき、見出そうとしない限り、大きな力を呼び覚ますことはできません。
そういう意味では、左脳の果たすべき役割は大きく、全ての脳がその得意とする能力を発揮するコーディネーターが左脳であると言えます。
心理分野では、信じ込みを無くし、新たな信念に書き換えることを「修正」と呼びますが、最近は、この言葉がなじまなくなりました。
前回のブログで書きましたが、そこにある不要な意識を取り除くことで、十分であることがその理由です。
セドナ・メソッドのような「手放す」という感覚が近いでしょう。
私達の意識の中には、既に役立つ信念が存在し、その意識は外界を通して、出会いを演出します。
いわゆる「縁」です。
その妨げとなるのが、我執であり煩悩です。
人の為ではなく、自分の為に、生き始めたとき隠されていた「縁」が起こり人生が流れ始めます。
その流れを作り出すのも、妨げるのも自分自身でしかありません。