柳生新陰流の石舟斎が剣術の奥儀を教えるために禅を取り入れたという話は、先日書きました。
この話がなければ、私はSATORIに気付くことはなかったかも知れません。
頭では、「自分を生きる」、「本来の自分になる」ということは、事ある毎に解ったつもりでいましたが、知識にすぎなかったことを今ではつくづく感じます。
本来の自分を探し、それを見つけ、生きれば良いという教科書通りの考えでした。
何が本当の自分で本来の自分であるのか?
その区別は、どのようにして見極めるのか?
自我は巧妙です。
悟りを得たいと思った人間には、「なんちゃってSATORI」を提供します。
あたかも道が開けた様な錯覚を用意します。
自我は自分の煩悩を満たすことが目的ですから、そんなことは朝飯前です。
石舟斎は、剣の奥儀を体得する条件の一つは、「相手に隙を見せないこと」つまり、自分であり続けるということを教えたかったのです。
隙を見せないとは、
気を取られない
弱気にならない
自分を見失わない
邪念が入らない
力まない
勝とうと思わない
気取らない
焦らない
中心がぶれない
むやみに吠えない
アドレナリンを出さない(笑)
唯、自分であり続けることです。
つまり、全部自分の意識次第で勝敗が決まるということです。
(最近の脳科学では、数秒前に既に勝敗の行方は決しているとあります。思考の現象化です。)
自分が自分で無くなった時、自分のエネルギーは、弱まり本来の潜在力は喪失します。
合気の奥儀は、力で相手を倒しません。
ですから、体力も腕力も必要ないのです。
(厳密に言うと抗重力筋を使うので、意識して筋力を使う必要がない。)
奥儀にのっとり技を掛けられるかというだけです。
ですから、型を覚えそれを習得するのです。
力で勝負(力む)しようとした時、相手に負けます。
心が揺らいでいるときも同様です。
悩みや気になることに惑わされていると技は掛りません。
奥儀とはそれだけ繊細です。
心を整えていなければ使えないのです。
心が整ってこそ、真の強さがある。
石舟斎は、それを禅に求めたのです。
(周りがどんな状況であっても惑わされないという不動心を得る。体を鍛えるだけではなく、意識の訓練が必要だった。)
表層意識では自分の嘘が見抜けません。
去勢を張っても体は本物ではないことを知っています。
そして、自分が本来思ってもいないことを一生懸命行動し、周りがいくら称賛してくれる事でも、そこに自分の心がなければ(喜びがなければ)、徳を積むことはできません。
自分の心とは、先ほどの例でいうと意識の中の抗重力筋を使うということです。
意識の中の抗重力筋とは、既に持っている深い意識の中の大望のことです。
「徳」は運を呼び込みます。
「運」を学習するとは、本来の自分になることであり「徳」を積むことです。
難しく考える必要はありません。
朝、朝日を浴びて、気持ちよさを味わう。
「おはよう!」と気持ちの良い挨拶をする。
(挨拶が重要ではなく、自分が気持ちよさを感じることがポイントです。)
小さな幸せを「今ここ」で感じることが「徳」の達人です。
自分が自分と一致し、「今ここ」に存在すればするほど「徳」が満ちてきます。
偽善者になり、不平不満、後悔、罪悪感が溜まれば溜まるほど、「不徳」が積み上げられます。(不一致こそ「毒」)
唯、生きる喜びを感じるために「行」を行う人もいます。
なんだか、偉そうなことを書いてしまいました。
なるべく解り易く無駄なことを書かないようにしましたが理解して頂けたでしょうか?
解ってしまえば、とてもシンプルなのですが、ボタンを掛け間違えるとそのままです。
自我は、偽善が大好きです。
人の為と書いて「偽」となります。
一時的な快楽は、自我を満たすだけであり、その奥には、トラウマや罪悪感など本来の自分ではないネガティブな意識がうごめいています。
このドロドロとした観たくない意識と対峙し、それを消化することで、雑念や煩悩は消えていきます。
自我は、意識という光を与えると消えていきます。
なぜなら、実体の無いものだからです。
ドロドロとした意識の正体こそ、「無明」であり清算していないネガティブな感情を伴う過去の記憶なのです。(強いポジティブ感の裏には強いネガティブ感が存在しますので、要注意です。)
今や21世紀です。
大昔のように、難行、苦行で煩悩を滅する必要はありません。
様々なテクニックで、それを取り除くことができる時代です。
私たちが一人一人、真なる自分の人生を歩めば、紛争や政治問題、病気、貧困などがなくなる世の中が到来するように感じます。
そういう意味では、SATORIが必要な時がすぐそこまで来ているのだと想うのです。
誰でも悟ることはできます。
そして、その後は、誰でも無用な意識の垢(自我)を取り除き、真の幸せを掴める時が来ると信じています。
唯、条件があるとすれば、それを自らが真摯に求める(唯、自分の為に)ということだと思います。
知りたい!という純粋な好奇心があれば必ず悟れます。
このブログに書いたことで、既に悟った人もいるのではないでしょうか?
悟りの後は、自分の意識を磨いていくことです。
自己実現という「行」をしながら、本来の自分自身になって行く!
欲しいものを欲しいという想いの中に、自分が解決すべき「行」が潜んでいます。
満たされながら、大悟していくという意識の進化こそ、深い意識が望んでいることなのです。
自我こそ、進化のパートナーとも言えます。
人って上手く出来ているんですね。凄すぎ!!(笑)
自我から解脱し、堂々巡りの運命の輪から抜け出します。
古い思考を捨てカルマを拭い去ります。
最終的には、すべてに繋がれる意識となり、更なる世界が私たちを待っています。
始まりもなければ終わりもない。
螺旋階段のごとく、意識の進化が続きます。
二元(物質の次元)の世界で一元(真我の次元)となる。
一元と二元は表裏一体です。
一元と二元を明確にすることで、パラダイムが大きく変わります。
この話がなければ、私はSATORIに気付くことはなかったかも知れません。
頭では、「自分を生きる」、「本来の自分になる」ということは、事ある毎に解ったつもりでいましたが、知識にすぎなかったことを今ではつくづく感じます。
本来の自分を探し、それを見つけ、生きれば良いという教科書通りの考えでした。
何が本当の自分で本来の自分であるのか?
その区別は、どのようにして見極めるのか?
自我は巧妙です。
悟りを得たいと思った人間には、「なんちゃってSATORI」を提供します。
あたかも道が開けた様な錯覚を用意します。
自我は自分の煩悩を満たすことが目的ですから、そんなことは朝飯前です。
石舟斎は、剣の奥儀を体得する条件の一つは、「相手に隙を見せないこと」つまり、自分であり続けるということを教えたかったのです。
隙を見せないとは、
気を取られない
弱気にならない
自分を見失わない
邪念が入らない
力まない
勝とうと思わない
気取らない
焦らない
中心がぶれない
むやみに吠えない
アドレナリンを出さない(笑)
唯、自分であり続けることです。
つまり、全部自分の意識次第で勝敗が決まるということです。
(最近の脳科学では、数秒前に既に勝敗の行方は決しているとあります。思考の現象化です。)
自分が自分で無くなった時、自分のエネルギーは、弱まり本来の潜在力は喪失します。
合気の奥儀は、力で相手を倒しません。
ですから、体力も腕力も必要ないのです。
(厳密に言うと抗重力筋を使うので、意識して筋力を使う必要がない。)
奥儀にのっとり技を掛けられるかというだけです。
ですから、型を覚えそれを習得するのです。
力で勝負(力む)しようとした時、相手に負けます。
心が揺らいでいるときも同様です。
悩みや気になることに惑わされていると技は掛りません。
奥儀とはそれだけ繊細です。
心を整えていなければ使えないのです。
心が整ってこそ、真の強さがある。
石舟斎は、それを禅に求めたのです。
(周りがどんな状況であっても惑わされないという不動心を得る。体を鍛えるだけではなく、意識の訓練が必要だった。)
表層意識では自分の嘘が見抜けません。
去勢を張っても体は本物ではないことを知っています。
そして、自分が本来思ってもいないことを一生懸命行動し、周りがいくら称賛してくれる事でも、そこに自分の心がなければ(喜びがなければ)、徳を積むことはできません。
自分の心とは、先ほどの例でいうと意識の中の抗重力筋を使うということです。
意識の中の抗重力筋とは、既に持っている深い意識の中の大望のことです。
「徳」は運を呼び込みます。
「運」を学習するとは、本来の自分になることであり「徳」を積むことです。
難しく考える必要はありません。
朝、朝日を浴びて、気持ちよさを味わう。
「おはよう!」と気持ちの良い挨拶をする。
(挨拶が重要ではなく、自分が気持ちよさを感じることがポイントです。)
小さな幸せを「今ここ」で感じることが「徳」の達人です。
自分が自分と一致し、「今ここ」に存在すればするほど「徳」が満ちてきます。
偽善者になり、不平不満、後悔、罪悪感が溜まれば溜まるほど、「不徳」が積み上げられます。(不一致こそ「毒」)
唯、生きる喜びを感じるために「行」を行う人もいます。
なんだか、偉そうなことを書いてしまいました。
なるべく解り易く無駄なことを書かないようにしましたが理解して頂けたでしょうか?
解ってしまえば、とてもシンプルなのですが、ボタンを掛け間違えるとそのままです。
自我は、偽善が大好きです。
人の為と書いて「偽」となります。
一時的な快楽は、自我を満たすだけであり、その奥には、トラウマや罪悪感など本来の自分ではないネガティブな意識がうごめいています。
このドロドロとした観たくない意識と対峙し、それを消化することで、雑念や煩悩は消えていきます。
自我は、意識という光を与えると消えていきます。
なぜなら、実体の無いものだからです。
ドロドロとした意識の正体こそ、「無明」であり清算していないネガティブな感情を伴う過去の記憶なのです。(強いポジティブ感の裏には強いネガティブ感が存在しますので、要注意です。)
今や21世紀です。
大昔のように、難行、苦行で煩悩を滅する必要はありません。
様々なテクニックで、それを取り除くことができる時代です。
私たちが一人一人、真なる自分の人生を歩めば、紛争や政治問題、病気、貧困などがなくなる世の中が到来するように感じます。
そういう意味では、SATORIが必要な時がすぐそこまで来ているのだと想うのです。
誰でも悟ることはできます。
そして、その後は、誰でも無用な意識の垢(自我)を取り除き、真の幸せを掴める時が来ると信じています。
唯、条件があるとすれば、それを自らが真摯に求める(唯、自分の為に)ということだと思います。
知りたい!という純粋な好奇心があれば必ず悟れます。
このブログに書いたことで、既に悟った人もいるのではないでしょうか?
悟りの後は、自分の意識を磨いていくことです。
自己実現という「行」をしながら、本来の自分自身になって行く!
欲しいものを欲しいという想いの中に、自分が解決すべき「行」が潜んでいます。
満たされながら、大悟していくという意識の進化こそ、深い意識が望んでいることなのです。
自我こそ、進化のパートナーとも言えます。
人って上手く出来ているんですね。凄すぎ!!(笑)
自我から解脱し、堂々巡りの運命の輪から抜け出します。
古い思考を捨てカルマを拭い去ります。
最終的には、すべてに繋がれる意識となり、更なる世界が私たちを待っています。
始まりもなければ終わりもない。
螺旋階段のごとく、意識の進化が続きます。
二元(物質の次元)の世界で一元(真我の次元)となる。
一元と二元は表裏一体です。
一元と二元を明確にすることで、パラダイムが大きく変わります。