この記事の著者は最後に
「みんなと違う」。それは間違いなく21世紀の「ほめ言葉」なのです。
と書いています。
「みんなと違う」のが誉め言葉だと思う人、僕は"全然わかってない"と思います。
多数派の中で違うのなんて、優れたことではないんですよ。
むしろ、良いことなんかほとんどありません。
「みんなと違う」というのは、実に生きづらいものなんです。
例えば靴の大きさ。
僕の足は24cmから25cmです。
そして幅が細くて甲が低い。
足に合う靴の選択肢が少ないんですよ。
靴売り場に行っても、あるのはだいたい25cmから。
それもほぼ全て、EEEとかの幅広で、足を入れてみれば甲が高くて。
中にはEEEEなんていうのも。
僕の足にはDがちょうど良いんですが、そんなのまずありません。
足と靴のようなことですら、多数派と違えばこうなんです。
そこへ持ってきて僕はASD(自閉パーソナリティ障害)とADHD(注意欠陥多動性障害)ときているものですから。
これは普段の行動や思考や生活に、ものすごく影響があります。
人と違うことなんて、全然良くないですよ。
多数派と同じなら僕、今より生きやすいんだろうなあと思います。
僕は周りから「人と違っていないと気が済まない人」なんて思われたりもするようですが、全くそんなことありません。
自分が楽に、自分ができるようにやろうとすると、それが往々にして多数派のそれとは違うというだけのことです。
自分が楽に、と書きましたが、それは決して「楽」ではありません。
自分が「楽」には、同時に周りからは攻撃されたり、不利な扱いを受けるんですよ。
そうした攻撃や不利な扱いは決して楽ではありません。
ただ、無理して周囲に合わせてしまうと、ものすごく辛くて苦しいことが多いんです。
その時はなんとかやり過ごせたとしても、その後の疲労感というか嫌悪感というか絶望感というか、すごく感じるんです。
それは僕にとってものすごくつらいことなんです。
だからそうならないように、自分を守るために、自分の受ける被害が少ないように行動するんです。
言わば「大やけどがやけどになった」状態。
全然「楽」ではないんですよ。
人と違うっていうことは、そういうこと。
僕は自分で他人に合わせることができるようなことであれば、人に合わせることを拒否しません。
合わせれることはできるだけ合わせています。
ただ、僕は自分の持つ特性のおかげで、できないことが多いだけです。
そもそも「人と違う」ということは、楽なことや優れたことではないんです。
人と違うことを良しとしたがる人、人と違いたがる人というのは、この生きづらさを抱えて生きるということを知らないし、感じないのでしょう。
なぜなら本当に「人と違う」という人生を経験していないから。
「人と違う」ということは面倒くさい人生を生きることです。
多数派に属する人よりも、嫌なこと、不快なことがものすごく多いんです。
わかってないんですよね。
多数派の人は人と違うことに憧れているようですが。
多数派に属して生きていけるのって、全然良いと思います。
わざわざ人と違う必要なんてありません。
わざわざ生きづらい人生を生きる必要なんてないと思います。
まあ、多数派の人には永遠にわからないことなのかも知れません。
ここで僕が言っても無駄だとも思いますが。
それでも自分のブログであるここで、ひとこと言わずにはおれない気持ちになりました。
無理して人と違う必要なんて何もありません。
多数派は多数派で、普通の人は普通が良いですよ。
人と違ってても生きにくいだけです。
リンクした記事その他、世間に溢れる「"人と違う"信仰」は多数派も少数派も両方を幸せにしないと思います