僕はショーペンハウアー及びこのup主さんの考えを否定はしません。


でも、僕個人においては少し違うな、と思いました。


僕も「人生は苦痛でしかない」と思っています。


ただ、僕が自分自身で感じている「生への意志」「生きることへの意志」はショーペンハウアー(及びこのup主さん)の提示するものとは異なっています。


僕にとっての「生への意志」「生きることへの意志」は「苦痛を避けたい」という意志だからです。


ショーペンハウアーは「生への意志」類を「欲」と捉えていると感じました。


そしてその「欲」を捨てて現状を肯定的に受け入れることで幸せになれる、と言っているように感じます。


しかし僕にとっての「生きることへの意志」は、「苦痛を避ける」という意志です。


その場合、ショーペンハウアーの理論による幸福になる手段は「苦痛を苦痛と認識せず、それを当たり前と受け入れろ」ということになります。


いささか大袈裟に言えば、僕は人生は苦痛でしかない中で、常に自分に感じる苦痛を少なくするように生きる選択をしています。


働くのは人一倍大嫌いな僕ですが、働かないで収入がない場合の苦痛と現在の仕事の苦痛を比べたとき、嫌ですが働く方が自分に与えられる苦痛が少ないから働いているだけのことです。


労働しなくても苦痛がなければ、あるいはその苦痛が少ないのであれば、労働なんかしません。


働かなければ「大火傷」働けば「火傷」ということに過ぎないのです。


僕の根本は「産まれたくなかった」であり、「産まれない方が幸せ」です。


しかし産まれさせられてしまった以上、僕の人生はいかに自分に与えられる苦痛を少なくしていくか、です。


目の前の苦痛、自分の選択によってこの先与えられる苦痛、そうしたものを自分なりに差し引き勘定をして、いかに苦痛を少なくするか、いかに被害を少なくするか、です。


人生なんて、苦痛でしかありません。


それもひとつの苦痛ではなく、莫大な種類の苦痛がより合わさってできているのが人生です。


そんなに嫌なら「死ねば良い」と短絡的で思慮の浅いことを言う人がいますり


僕は自分で死ぬ時の苦痛と現在の苦痛とを秤にかけたとき、自殺するより現在の苦痛の方がまだ苦痛が少ないと感じているから生きているだけです。


僕の人生でそれを決めるのは僕の意志です。


「自殺してみなければわからない」という方がいるとするなら、そういう人とは永遠に分かり合えることはないでしょう。


また、そういう人は僕にとって何の価値もありません。


産まれた人は最後には例外なく、必ず死にます。


ゆえに人を産むということは「死ぬ人を作る」ということであり、結果の本質的に殺人だと僕は考えています。


理解できない人には理解できないでしょうし、僕もそれを押し付けもしませんが。