自分が使っている聖書は、新改訳2017です。

 

今日は、申命記20章20節に行き当って、内容的に引っかかりました。

 

まず、記述としてはこうです。直前19節から全文引用。

 

あなたが長い間、ある町を包囲して、これを攻め取ろうとするとき、斧を振るって、そこの木を切り倒してはならない。その木から食べるのはよいが、切り倒してはならない。まさか野の木が、あなたの前から逃げ出して包囲の中に入ってしまう人間でもあるまい。

 ただ、実を結ばないと分かっている木だけは切り倒してもよい。それを切り倒して、あなたと戦っている町が陥落するまで、その町に対してそれで砦を築いてもよい。

 

ここで、異様に引っかかるのが、「実を結ばないと分かっている木」とは、何の事か、です。

 

私も、森林科学科に居ましたから、知識はあります。というか、プロの類です。さて。

 

 

まず、一番に思いつくのが、日本で言う、スギ、ヒノキ、マツと言った針葉樹の類です。

 

これらは確かに、リンゴ、ブドウ、イチジク、ナシ、ミカンそういう、美味しい実を付ける訳ではないので、現在でも材木として扱われます。

 

早く言えば、家の柱、床や壁や天井の板、そういう建築材として最適です。材が密で通直で安定しているので。

 

古代イスラエル王国の3代目、ソロモンが神殿を建てた時も、レバノン杉をたくさん使ったと書かかれています。

 

適材適所という言葉は、人材派遣会社がよく使う言葉ですが、元々は、林業用語です。

 

だから、実を結ばないと分かっている木だけは切り倒してもよい、の意味が、人間も木と同じで、向き不向きがあり、その特性に応じた正しい扱いをしなければ、その人が持っている長所を生かすことができない、の意味であるならば、正しい事になる。

 

しかし、どうも、旧約聖書を通して見るに、そういう意識で書いてあるようには読めなかったのです。

 

 

たとえば、マタイの福音書3章10節、洗礼者ヨハネ、つまり、最後の預言者とされる人物の言葉はこうです。

 

 

斧はすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は全て切り倒されて、火に投げ込まれます。

 

 

これ、どう読んでも、神の前に良い成果を挙げる事のできない人間は、全員死んでしまえの意味です。

 

だから、意味合いとしては、言っても聞かない、同じ間違いを繰り返す、そういう人間は切り捨てて殺せの意味合いです。

 

その文脈で読めば、ルカの福音書13章6~9節の、所謂、実のならないイチジクの喩えが理解できる。

 

 

 イエスはこのようなたとえを話された。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。そして、実を探しに来たが、見つからなかった。

 そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年間、このいちじくの木に実を探しに来ているが、見つからない。だから、切り倒してしまいなさい。何のために土地まで無駄にしているのか。』

 番人は答えた。「ご主人様、どうか、今年もう一年そのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥料をやってみます。

 それで、来年、実を結べばよいでしょう。それでもだめなら、切り倒してください。』」

 

良い実を結ぶ可能性のある、イチジクの木であっても、実を結ばないと判れば、切り倒していたというのが、実際のようです。

 

でも、本当の所を言えば、このご主人様、イチジクの木を植えてあったとしても、水もやらず、肥料もやらず、枝の整理もせずに、自分が植えたものを放ったらかしにして、他人任せにしておいて、どうしてその実だけが欲しいと言うのか、理解に苦しむのですが。

 

要するに、主人が旧約聖書の父なる神で、番人がイエス・キリストという話です。

 

 

旧約聖書の考え方で言うならば、悪人は全員、切り殺せです。

 

新約聖書の考え方で言うならば、悪人が立ち帰って生きるよう、教えて諭しなさいです。

 

 

私は、実を結ぶ木に見えるでしょうか? それとも、実を結ばない木に見えるでしょうか?

 

実を結ぶ木であるにも関わらず、肥料が足りないだけでしょうか?

 

 

主よ、私を、実を結ぶ者として下さい。

 

貴い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。

 

アーメン。