分間の浦(わまの浦)(田尻港)

古代における瀬戸内海は、北部九州(大宰府)と畿内(難波津)の2つの拠点を結ぶ主要な航路としてその役割を果たしていましたが、それに加えて、大陸文化の流入においても、朝鮮や中国への使節(遣唐使・遣新羅使)が畿内(難波津)から目的地に向かう際に利用する重要な交通路となっていました。
 そのため、大和朝廷は瀬戸内海一帯の港や船の整備に力を入れ、遣唐使および遣新羅使の航路である難波津から武庫の浦、明石の浦、藤江の浦、多麻の浦、長井の浦、風速の浦、長門の浦、麻里布の浦、大島の鳴戸、熊毛の浦、佐婆津、分間の浦、筑紫館へと続く諸港が開かれました。
天平8年(736)6月、遣新羅使の一行は難波津(大阪・淀川・河口港)を出発、佐婆の海(山口県周防市の近く)で暴風雨にあい、一昼夜漂流、
幸いにもたどり着いたのが、現在の中津市田尻付近の浜といわれています。

万葉集巻代5に分間の浦で詠まれた8首の歌を残しました。

佐(さ)婆(ば)の海中(わたなか)にして忽ち(たちまち)に逆風に遭い、漲(たた)へる浪に漂流す。経宿(ひとよへ)て後(のち)に、幸(さきはひ)に順風を得、豊前国(とよくにの)下毛郡(みちのくちしもつみけのこほり)の分間(わくま)の浦(うら)に到着す。ここに艱難(かんなん)を追ひて怛(いた)み、悽惆(せいちう)(心が晴れ晴れせず痛み悲しむ意味)して作る八首
(佐婆の海中で思いがけなくも逆風に遭い、大波にもまれて漂流した。一夜を過ごした後、運良く順風を得て、豊前国(とよくにの)下毛郡(みちのくちしもつみけのこほり)の分間(わくま)の浦(うら)に到着した。
そこで苦しかったことを思い出してなげき、悲しんで作った歌八首)

3644 大君(おおきみ)の 命恐(みことかしこ)み 大船(おおふね)の 行(ゆ)きのまにまに 宿(やど)りするかも
                        雪宅(ゆきのやか)麻呂(まろ)
(大君の 仰せのままに 大船の 行くのに任せて 旅寝することか)
(遣新羅使の船が逆風に遭って予定のコースから外れ、思いがけない所に漂着しても、運命とアキラメという気持ち)

3645 我妹子(わぎもこ)は はやも来ぬかと 待つらむを 沖にや住まむ 家(いへ)付(づ)かずして
(いとしき妻は 早く帰ってほしいと 待っていることだろうに 遥か沖に泊まることよ 家からだんだん遠く離れて)

3646 浦廻(うらみ)より 漕ぎ来し船を 風早(かぜはや)み 沖つみ浦に 宿りするかも
(浦辺伝いに 漕いで来た船だが 逆風に遭って 沖の浦で 旅寝することだ)
 
3647 我妹子が いかに思へか ぬばたまの 一夜(ひとよ)も落ちず 夢(いめ)にしみゆる
(いとしい妻が どんなにに恋しがってのことか 一夜も欠けず 夢に見えることよ)
3948 海原の 沖辺に灯し いざる火は 明かして灯せ 大和島見む
(うなばらの 沖辺にとぼす 海人のいさり火よ もっと明るくとぼしてくれ
 大和の山々を見たい)

3949 鴨じもの 浮き寝をすれば 蜷の腸 か黒き髪に 露そ置きにける
(浮き寝をするものだから (蜷の腸・か黒き髪の枕詞)黒髪に 露がおいている。)

3950 ひさかたの 天照る月は 見つれども 我が思ふ妹に 逢はぬころかも
(大空に照る月は 何度も見たけれど わたしのいとしく思う妻の顔を 見ていないこのごろだ)

3651 めばたまの 夜渡る月は はやも出でぬかも 海原の 八十島の上ゆ 
 妹があたり見む 〈旋頭歌なり〉
〈夜空に渡る月は 早く出てくれないかなあ 海原の 多くの島越しに 妻の辺りを見たい〈旋頭歌である〉〉

分間の浦は現在の田尻地区東北にあたる和間鼻(わまはな)と呼ばれている所である。との説が一般的です。現在の海岸線は干拓等により大きく変化していますが中世以前は山国川の河口の三角州である小祝は福岡県との陸続きであり、闇無浜から田尻にかけて大きく弧状に湾入していたと考えられています。

遣新羅使の一行は当時九州で流行した天然痘が猛威をふるい、大使阿部継麻呂以下、多くの死者がでました。予定の日程より大幅にずれて副使大伴三中らわずか40人くらいが翌天平9年の3月28日に帰朝して使者の状況を報告したといわれています。

写真は中津港に入港するダイハツ自動車運搬船です。とにかくデカイ!