大分県中津市の地方史 大分県中津市の地方史 大分県中津市の地方史

中津市内には現在3基の織部灯篭が残されています。

1基は浦町の養寿寺、1基は新魚町の自性寺、1基は殿町の井上邸です。

織部灯篭とは織部流茶法の祖である古田織部正が考案したもので、茶庭に飾る石灯篭に隠れキリシタンの印を隠したものです。

関が原の戦いにさいして石田三成に攻められ壮烈な最期をとげた細川ガラシャ(細川忠興の室 ガラシャは熱心なキリスト教徒でした。)の供養のためであったと考えられます。織部正と千利休は茶道の友で、利休と忠興は師弟関係でした。織部正~利休~忠興と贈られてきたものと言われています。

写真は殿町の井上邸にある織部灯篭は総高157.6cm、竿の高さ78.8cm、幅27.3cm下部に高さ33.3cmの僧形の人物が船形の窪みの中に浮彫りされています。その石材は花崗岩で京都産の白川石と推定されています。

しかし笠、宝珠はこの石灯篭のものではない推定とされています

けれどもその火袋に剣菱模様の十字形の紋様が彫刻されているものは非常に珍しいとされています。

細川忠興は領内においてキリスト教を保護してきましたが、1618年(元和4年)より弾圧にかわり、キリスト教信者ユウシン・ミヤナガ(宮永祐信)ら10数人を『さかさはりつけ』にし、信者3.000人を打首にしたと言われています。

前藩主、黒田官兵衛(如水)が一時期、キリスト教徒であり、細川忠興がキリスト教を保護していた関係で、中津にはキリスト教徒が多かったと推察されます。

この弾圧の後、多くの住民は浄土真宗に改教して行きます。

* 中津市教育委員会が掲示している説明板ですが昭和36年製作、 説明のおかしなところもあります。 文化財課さん

お願いですから、市が掲示している、文化資産の説明板の

見直しをしてください。