大分県中津市の地方史 大分県中津市の地方史 大分県中津市の地方史


久留島 武彦(くるしま たけひこ、)は、玖珠郡森町(現・玖珠町)出身の児童文学者者。村上水軍直系の子孫で、父は久留島通寛(みちひろ)母は恵喜(えき・中津藩 中金奥平家(なかがねおくだいら)出身の長男として、久留島藩邸に生まれます。

1906年より日本全国での童話の読み聞かせ(口演童話)活動を本格的に開始。訪ねた幼稚園・小学校6000を超えると言われています

「日本のアンデルセン」と呼ばれていました。


1883年(明治16年)2月、久留島武彦が小学生4年9才の時森町の7割以上の家屋と旧藩邸、小学校も焼失する大火によって、旧藩邸であった自宅も焼失、通っていた小学校も焼けたので約2Km離れた隣村の小学校に通うが、数々の事情がかさなり1884年(明治17年)1月母の実家、中津市諸町1808番地に転居、殿町小学校(殿町 中津歴史民俗資料館前・現中津市立・南部小学校)に転校します。

南部小学校の協力により、殿町小学校の卒業生名簿を確認していただきましたが卒業生名簿に名前の確認はできませんでした。

たぶん卒業直前に大分市の小学校に転校したものと考えられます。

母の実家、中金奥平家は中津奥平藩の家中・奥平丈上右衛門(中金奥平家の八代目当主)石高二百石、丈上右衛門は藩内で槍の指南役、長州戦争にも参加、町奉行も勤め、功績により「奥平」を名乗ることを許されています。

母恵喜は丈上右衛門の7人の子の次女にあたります。

江戸時代は、多くの商人、農民が利用して城下に入る山国川の渡し場、自性寺横の広津口に接し商業の町として栄えました。

明治大正期の諸町は商家が軒を連れて、醤油・味噌・清酒の醸造業、和傘・なたね油・家伝薬の製造業、表具師・塗師・麹屋・仕立屋・畳屋・大工・左官などの幾種の職人、義太夫の師匠、木賃宿、その間を縫うように旧士族、弁護士、医師など実に幾種の職業の人たちが住んでいました。また銀行、火力発電所まである町でした。

ここに移り住んだ久留島武彦少年は街というものに接し大きな刺激を受けていきます。

「豊前・中津の母の里方に預けられ町の学校とは比べものにならないくらい、大きくて立派な学校の生徒になり、初めて靴を履いた」と述懐しています。

中津での日々の生活は友人にも恵まれ、のびのびとした楽しい少年期をすごしています。

町内の白壁に落書き、町内にあるえびす宮「蛭子宮」での遊び。

中津大神宮(中津城跡、上段に明治14(1881)年9月に伊勢神宮の分霊を勧請して創祀)でおこなわれていた大神宮講社での定例説教を欠かさずに出席しました。しかし教義などに

興味をもったのではなく、講社の若い神官が彼らのグループのリーダー的地位にいて、講和が終わった後、片付けを言いつけ、その後神前にあげられた、餅や干し魚などを残った火鉢で焼いてたべさせた。いかにも少年期における楽しい逸話です。


1887年(明治20年)大分市大分中学(現・大分上野丘高等学校)に入学。楽しかった中津を後にします

参考文献 久留島武彦・年譜- 版権者・勢家肇 発行 わらべの館・久留島武彦記念室・玖珠町史 発行 玖珠町教育委員会

写真は武彦が遊んだ諸町蛭子宮、殿町歴史民俗資料館前の殿町小学校跡地、母親・恵喜の実家跡(現・空地)です。