日本には報道の自由と取材の自由などないと思ったのは、今から七年前になります。


 奈良のエリート少年が自宅に放火し、継母と異母妹弟の3人を殺害した事件を取り上げ、「僕はパパを殺すことに決めた —奈良エリート少年自宅放火事件の真相」というタイトルの本を出版しました。


何故、県下一の進学校に通う少年が、そのような事件を起こしたのかということを、世の中に知ってもらい、このような不幸な事件が二度と起こらないようにという思いで、供述調書を入れ込みながら本を書き上げました。しかも、この本には少年と父親が特定できる個人情報は書き込まれていないので、識別可能な特定の人のプライバシーになっていないのです。もちろん担当編集者と相談し合い、報道された以外のことは、書いておりませんし、新聞に書かれていた名前も出していなく、特定されるようなことは全て省きました。本には加害少年の心情を漏らさずに書いて、彼の精神的な特徴と彼がどのような気持ちで犯罪に至ったのかを表現しました。


 しかし、その供述調書を使ったということが、検察庁の所属する法務省の逆鱗に触れ、加害少年とその父親に告訴させ、私は50日間の取調べを検察から受けました。検察は不倫と金銭の授受というお決まりのストーリーを作り、そのストーリーを成立させようと躍起でした。その後、検察のストーリーは全くのデタラメということが分り、正当な取材ということで、不起訴となりましたが、その取調べと大手マスコミの検察からのリーク報道で、私はサンドバック状態でした。検察にしてみれば、「不倫」も「金」もないということは予想外の展開だったのでしょうが、目的は十分に果たしたようです。それは、取材報道の制限です。取材源(ニュースソース)を萎縮させて、行政側が自分たちのやりやすいように仕事を進めることができる。そのためには発表ものやリークで満足してくれる記者だけがいてくれればよく、そこから外れた私のようなジャーナリストの存在は邪魔なだけということなのでしょう。強制捜査をしたことだけでも将来の取材活動に対する大きな牽制になったに違いないと思います。


 そして、月日が七年経ち、今度、政府は国の外交や安全保障に関する秘密を漏らした人や、不正に取得した人への罰則を強化し、秘密の情報が漏れるのを防ぐことを目的としている特定秘密保護法などという悪法を作ろうとしております。もし、廃案にならなかったら、いままで以上に、政府に都合の悪い情報が隠され、その情報を取材している記者も取材源も、罰せられるということが頻繁に起こってきて、国民の知る権利が侵害される恐れがかなりあるでしょう。得をするのはまたもや官僚様ですね。


 昨日の朝日新聞によると森秘密保護法案担当相が取材方法は「取材の自由」として保障されるとの見解を示したとなっていますが、全く信用できません。現実にあのドメスティックな奈良の少年の放火殺人事件でさえ、前述した通り報道の自由、取材の自由をとめられ、不当な捜査が行われたのです。捜査側が一旦決めつけたらお決まりのストーリーを作り、家宅捜索、差し押さえをして行き、パソコンの中身を全て見るという恐ろしいことが起こるのです。私の場合、取材源側の裁判が終わるまで、パソコンも携帯電話、取材ノートやメモを含め90箱程の押収された資料は、約3年間戻ってきませんでした。この本に無関係な資料や本、CD、DVDまで押収され、丸裸にされたのと一緒です。


 この法案は報道の自由と表現の自由、取材の自由を今以上になくし、国民にとって悪法となることは間違いありません。


 国民の知る権利や表現の自由は、この日本国には必要ないと全国民が言うのなら、いいのですが。


 


詳しいことは「いった誰を幸せにする捜査なのですか。 検察との『50日間闘争』」(光文社)に書いています。


さらに、日弁連「秘密保全法制対策本部」の清水勉事務局長のブログもご覧下さい。




http://d.hatena.ne.jp/shimizulaw/