「陸山会」事件で小沢一郎氏の元秘書3人が有罪となった。多くの国民は、この判決に疑問を持ったのではないだろうか。証拠ではなく、明らかに心証で有罪にしてしまうということに。判決理由(要旨)を読むと、「…書いたとみるのが自然で合理的だ」「工作とみるのが自然だ」「…と考えるのが自然だ」とか、「強く推認される」「合理的に推認できる」など、推測の文言が目立つ。


 




この事件には、蜂須賀三紀雄検事が元秘書の池田氏を取調べたということで、注目していた。検面調書の多くは、蜂須賀検事も含め検察からの脅しや利益誘導があったため証拠採用されなかったからだ。


 




先日の大阪地検FD改ざん事件の公判では、虚偽調書は日常茶飯事ということを検事が述べていた。日本の刑事司法裁判における有罪率99.9%という驚異的な数字は、起訴する検察と裁判所の馴れ合いによって成り立っている。判事や検事、弁護士は司法試験に合格し、長期間の司法修習での同族意識がうまれるらしいが、それが検察と裁判所の馴れ合いに繋がるのかもしれない。検察から裁判所などへの人事交流も頻繁に行われている。また、有罪にすることが、判事の成績にも関わってくるのか。


 


検察の証拠改ざんなど不祥事以降、裁判所が検面調書を鵜呑みにせず、調書の証拠不採用で「検察の暴走」に歯止めがかかってきたように思っていた。日頃、検察からのリーク情報を記事にしている大手マスコミの司法記者さんたちもそう思ってきていたようである。


 




しかし、長年の司法の癒着の慣例はなかなか崩れないようだ。推測での有罪判決は危険ではないだろうか。国民は不安になったに違いない。