悲劇から学ぶ「家族力」 草薙厚子




少年問題に関わって今年で二十年になる。

 法務省少年鑑別所の法務教官を拝命した時、少年問題に一生を捧げようという覚悟で仕事に従事した。非行少年の犯罪動機、家族歴、生育歴などをつぶさに調べ、「再犯を防ぐための矯正教育の研究ができれば」と日夜考え、正義感に燃えていたのを思い出す。いま思うと、大分肩に力が入っていたようだ。

 当時はあくまで「法の内側」から事件を見つめていて、現在のように内側と外側、両方からの検証を試みることはなかった。国家公務員の立場で少年問題を扱っていたため、事件に関する情報は機密事項として手に入った。だが十年前にフリージャーナリストに転身し、取材者として少年事件に取り組むようになると、そこには必ず大きな壁が存在した。事件に関する情報がまったく外に漏れてこないのだ。内側にいる時には気付かなかった「情報の壁」の高さを実感し、困惑した。

 少年事件は少年法六一条により、少年の本人を特定する報道が禁じられている。さらに少年法二二条で、少年審判は少年の立ち直りや社会復帰を妨げないよう非公開と定められているため、重大な少年事件で第三者が「真実」を知るのは難しい。

 しかし二十年前と比べて、残念ながら少年犯罪は凶悪化の一途をたどっている。「事件の真相を明らかにしなければ、同じような事件が再び繰り返される」という危機意識もあり、私は事件が起こるといつも強い衝動に突き動かされ、事件現場へと向かった。

 そして表面的事実の奥へ奥へと取材を進めていくうちに、ふと壁の穴を通り抜け、真実にたどり着く奇跡を何度か経験した。

 私の取材の目的は加害少年を糾弾することではなく、またいわゆる「スクープ」を手に入れてやろうという野心でもない。私はただ事件の真相を、なぜ起こったのかを知りたいだけなのである。その姿勢は十年前もいまも変わらない。

 世の親たちは少年事件が報道されると「対岸の火事」という感覚で捉え、犯罪を起こす子は「特殊な子ども」とレッテルを貼りたがる。自分の子どもとは無関係だと思い込み、まったく関心を示そうとしない。

 だがそれは危険な態度ではないかと思う。最近の重大な少年事件は一昔前の「ワル」ではなく、勉強もできて補導歴もない「普通の子」が引き起こすケースが増えている。万引きやケンカなど軽微な事案では、優等生が事件を起こす割合はもちろん低い。だが世間をあっと驚かせた凶悪事件や、動機が極めて不可解な殺人事件について、「普通の子」の暴走が散見されるようになった。

 事件を起こす「普通の子」に共通する資質として、他人とコミュニケーションを取れないことが挙げられる。自己表現力と他者への共感力に乏しく、対面での会話ができない。一方でネット社会の中では自分勝手で破壊的な言葉を掲示板に書き殴る。そんな彼ら彼女らがひとたび対人関係でトラブルに陥ると、短絡的で刹那的な行動を取ったり、異常な攻撃性を発揮したりする。

 高度経済成長期以降、「一億総中流社会」だった日本はいま、上下に分かれて二極化が加速している。そんな中、子育てに関して「上流」と呼べる家庭はどれほど存在するだろうか。少子化に伴い、過保護に育てられた子どもたちは外で飛び回ることが少なくなり、ひとりでゲームをするか、友達と遊ぶといっても家の中で個々のポータブルゲームに没頭するのが当たり前の光景となった。

 先日も電車の中でこんな光景を目の当たりにした。制服を着た女子中学生が五、六人、大きな声で何かを論じ合っていた。観察していると、どうやら全員が一つの意見でまとまり、頷き合っている。と思ったら次の瞬間、その五人はそれぞれ友人の存在を忘れたかのように自分の携帯に目を落とし、急に自分一人の世界へと帰っていったのだ。それまでの意思の疎通などまるでなかったかのような変わり身の早さに、私は然とした。コミュニケーションが線として繋がっていかないのである。中高生の時から携帯電話を使っている世代は、たとえ誰かと一対一で話をしている時も平気でメールを打つ。それがおかしいと思うこちらの感覚が「古くさい」となる。

 私は新刊『僕はパパを殺すことに決めた 奈良エリート少年自宅放火事件の真実』をちょうど書き終えたところだ。この本で取り上げたのは、東大や京大に多くの合格者を輩出する進学校の高校一年生が、父親との成績を巡るトラブルから自宅に放火をしてしまうという悲劇的な事件だ。結果的に継母と異母弟妹の三人が焼死する重大事件だったので、記憶されている方も多いだろう。

 少年は小学校に入る前から、父親によるスパルタ教育を受けていた。問題を解くのが遅いというだけで、向かいに座った父親の鉄拳が飛んでくる。少年はそんな環境で十年以上、勉強を続けた。いやむしろ、父親の暴力は年々激しくなっていった。

 この少年は父親に怒られるのが怖くて、テストの点数を改竄して伝えたり、試験中にカンニングをしたりしてしまう。そうした行為がことごとくバレ、父親から「今度ウソついたら殺すぞ」と言われていた。

 そして、少年はまたウソをつく。ほんの些細なウソだった。

 だが予想される父親の殺人的暴力に恐怖を感じ、「殺される前にパパを殺そう」と決心する。少年は最終的に自宅に火を放ち、家を出た。家族の安否を気遣うこともなく、北へ北へと逃げ続けた少年は最後、自宅から六十キロ離れた京都で捕まった。

 少年が放火した日、父親はたまたま家におらず、継母と異母弟妹が犠牲になった。不思議なのは、少年が父親がいないと知った上で放火を決行していることだ。この最大の謎は、これまでまったく解明されていなかった。私は三〇〇〇枚に及ぶ捜査資料に目を通し、はじめて納得した。少年はなぜ父親のいない自宅に火を放ったのか、その答えは本書の中に書かれている。

 進路や成績を巡る親子のトラブルはいつの時代にも、どの家庭にもありうる話である。今回のケースでは、父親の度を越した子どもへの押し付けが悲劇を呼んだ。相互コミュニケーションが存在しない、「支配」と「被支配」で成り立つ父子関係だった。

 両親が医師で息子は有名進学校の生徒というこの家族は、端(はた)から見れば、経済的に恵まれた上流階級と言えるだろう。だが「家族力」は下流だったと言わざるを得ない。

 私が取材を続けてきた実感として、重大事件を起こした少年の育った家庭は、親が一方的に価値観を押し付けるか、反対に親がコミュニケーションを放棄しているかのどちらかだ。

「愛の反対は無関心」と言われるように、後者に比べれば前者は愛情があるとは言えるかもしれない。だが、暴力という歪んだ愛情を押し付け続けて、まともな父子関係が育つはずはない。

 またこの父親は、教育という名の下で息子を自分の所有物だと錯覚し、子どもの気持ちを理解しようとしなかった。「子どもが立派に育ってほしい。良い人生を歩んでほしい」と思うのは親として当然かもしれない。しかし過度な期待と、逃げ場のない鉄拳制裁は子どもを成長させないどころか、子どもを追い詰めてしまう。結果として、今回の事件では三人の尊い命が奪われた。

 この事件もまた「対岸の火事」と思う人が多いかもしれない。確かに父親の暴力の凄まじさは特殊だが、「子どもを支配したい」という根本的な部分において、この父親の「予備軍」である親はけっして少なくないはずである。

 子育てに正解はないが、間違いはある。その間違いを周囲の家族が指摘できる環境、そしてその指摘に耳を傾ける謙虚さがあれば、悲劇は避けられるはずだ。私はそれが本当の「家族力」だと思う。




http://shop.kodansha.jp/bc/magazines/hon/0706/index02.html