今週の火曜日(2月24日)、奈良地方裁判所刑事部の法廷で、崎濱先生を被告人とする秘密漏示事件の論告求刑(検察側)と最終弁論(弁護側)がありました。

小野寺検事の求刑は、法律(刑法)で定められた最高刑の懲役6ヶ月でした。「崎濱先生のしたことは刑務所に6ヶ月入れるに価する」というのが、国家権力である検察庁の意向だということです。それだけではありません。医師法では罰金以上の刑に処せられた医師については、厚生労働大臣は3年以下の医業の停止や医師免許の取消ができることになっていますから、検察庁の意向としては、崎濱先生のような医師は日本社会から排除すべきだということです。




私は、断じて納得できません。

まず、少年審判の少年の精神鑑定をする鑑定人は医師に限りません。実際、多くの心理学者なども鑑定人になっています。その人たちが同じことをしても、秘密漏示罪にならないのに、崎濱先生だけが医師であるがゆえに秘密漏示罪で罰せられるというのはおかしいです。




一番大きなことは、目的正当性です。

崎濱先生の私と講談社に対する資料提供行為は、少年の社会復帰のためであり、社会のためです。検察や加害少年と父親の弁護士が主張する「そっとしておくことで誰もが忘れてくれる」というのは大きな間違いです。だれかがふと気づいたときに、つまらない陰口で、少年がそれまでに築いた人間関係はすべて崩れ去るのです。これまで、そのような少年を数多く見てきました。

それよりも、事実によって少年自身に自分のしたことを振り返ってもらい、世間も理解する。贖罪は自分のしたことや自分のしたことが周囲の人々に与えた影響などを適切に知ることによって初めて生まれ来るもので、そうやって苦しみ悩んで更生した少年は真の理解者を得ることができるのです。そのことはインターネットのアマゾンで『僕パパ』に寄せられた読者の感想を読んでいただければはっきりわかります。崎濱先生は本の内容に大いに不満を抱いているようですが、世間一般の読者の圧倒的多数は、奈良地検の強制捜査報道によるバイアスがかかるまでは、「少年の追い詰められた心情がよく理解できた」と高く評価してくれています。少年を理解し、受け止めようとする人たちが世の中に広がり始めていたのです。崎濱先生の意向は読者にしっかり受け止められていたというのが現実です。




供述調書が「秘密」に当たるというのも納得できません。

公開裁判になれば、その内容が公開法廷で公表される供述調書です。それのどこが「秘密」になるのでしょうか。法廷で告訴人(加害少年の父親)と告訴代理人弁護士は、その答えを示せませんでした。仮に、検察官が言うように、法廷で検察官が公開した部分だけが秘密に当たらないのだとすると、「秘密」に当たるかどうかは検察官がすべて決めることになります。検察官の考え1つで犯罪になったりならなかったりという社会が、正義なのでしょうか。そういう社会では情報開示が後退し、報道の自由、そして国民の知る権利がますます狭められてしまいます。言論の不自由どころか、言論暗黒国家です。民主主義国家の成り立ちをも脅かしかねません。




しかし、私には確信があります。

 2009年1月14日、私は証言台に立って、裁判長を正面に見ながら私は証人として証言しました。私の証言一つ一つに耳を傾ける裁判長の表情を見て確信しました。「裁判長は事実をすべてわかっている」と。そうであれば崎濱先生には必ず無罪判決が下されるはずです。