お元気ですか
先日、映画の都ハリウッドの Walk of Fame (有名人の歩道)に三船敏郎(1920~1997)さんの銘板が刻まれたとのことです。
黒澤明監督も三船敏郎無くして世界的監督にはなれなかったし、三船さんも黒澤映画に起用されなければ世界的大スターにはならなかったでしょう。
日本人=サムライ(SAMURAI)というイメージを作ったのも、三船敏郎によるところが大きいのではないかと思います。一説によると、スターウォーズに登場する剣劇シーンも三船に代表される浪人武士の殺陣を参考にしたとか。
わたしがリアルタイムで三船作品を観はじめたのは「レッド・サン」というチャールズ・ブロンソン、アラン・ドロンの日・米・仏の三スターが共演した映画で、アメリカの荒野で日本の名刀を守り抜こうとする武士とそれに関わる癖のある二人、という少し風変わりな作品でした。
レンタルビデオやDVDが登場して普及する以前は、昔の映画といえばたまにテレビで放映されるか、どこかでリバイバル上映される時に観に行くしかなく、黒澤映画特集上演会などの催しがなければ、有名な映画作品でもめったに観る機会はなかったのですね。
それが今では昔の映画がどんどん復刻され、画像・音声もデジタル処理で鮮明にしたりしてDVDやBluray化されて復活してくるのです。
映画界に入るまでの三船敏郎の歩みも非常に特異なものなのですが、それはちょっと置いておきます。
映画デビュー作が1947年(昭和22年)の「銀嶺の果て」(監督・谷口千吉、脚本・黒澤明)で主要脇役として採用されました。三船が27か28歳の時で、野性味と繊細さとあくの強さを感じさせる青年を演じています。この作品で黒澤は俳優三船に括目したのです。(また、これは山岳映画の名品でもあります。)翌48年、黒澤監督の「酔いどれ天使」で志村僑と二人主演に抜擢され、さら49年に同じく黒澤監督「静かなる決闘」、「野良犬」に主演して映画スターの地歩を築いていきます。彼が黒澤監督と共に国際的に認められていくのは、翌50・51年の「羅生門」や54年(昭和29年)の「七人の侍」以降のことです。
さて、
昔の映画、特にその時代の現代映画は、当時の社会の雰囲気や人心を推測するよい手がかりになります。自分の幼い頃や親や祖父母の時代のムードの一端をうかがい知る手がかりになります。 またオジンのたわごとか、などとそしるなかれ。 二十歳くらいの青年でも十数年前の作品から、自分の幼少期の世の中の社会感覚のようなものを感じ取ることができます。
上記の「酔いどれ天使」は<結核>がまだ死病だった時代の物語です。「静かなる決闘」は恐ろしい性病だった頃の<梅毒>の物語で、両者ともに細菌性の伝染病(感染症)です。この数年後に菌そのものを殺す抗生物質が普及して比較的容易に治療・回復できる病気に変わっていきますが、この頃はまだまだ恐ろしい病いだったでしょう。
同様の細菌性感染症であるハンセン病は日本では特異な扱われ方をしたことは多くの人がご存知でしょうが、この病気に関連する映画作品もいくつかあります。
とりとめもなく書き連ねましたが、小生の頭がとりとめなくできているのですから仕方ありません。
意外なことに、三船敏郎の本格的評伝が昨年になってようやく出版されました。
「サムライ 評伝・三船敏郎」 松田美智子著 文芸春秋社