生活の中で、ちょっと良いことってあるじゃないですか。

何か美味しいものを頂いたとか、
家族で出かけて和やかな時を過ごす中、思いがけず綺麗な景色に出会ったとか、
難しいと思っていた仕事とか人間関係が思いのほか上手く行ったとか。


今までだったら素直に喜べたことが、今は正直、むしろ辛いなあと思います。

あの子に食べさせてあげたい。
いやそれは、声をかけて席には置くんだけども。食べている姿が見えない。

あの子がここに一緒にいて楽しんでくれれば。ここに、いてさえくれれば。今どんなにか幸せだろう。
いてくれると信じてはいるけど。なんで見えないんだろう。


悲しさ、虚しさ、寂しさが、何もない時より一層感じられる。胸が潰れるような、張り裂けるような感じ。
家族と共にいる、本来なら息子も一緒にいるべき状況だと、そういう感じ。


そして、仕事みたいに元々息子がいる場所ではなかったシーンで感じる「良かった」はまた少し違う感じで、ものすごく罪悪感が湧いてきます。
息子があんなことになって、それに責任を感じているはずなのに、こんな本質的にはどうでも良いことで喜んでいる場合じゃないだろう、もうお前はそれで大丈夫になってしまったのか?みたいな。
我が身を引き裂いてしまいたいような、頭を壁とか何かに突っ込んでしまいたいような。


事後直後みたいな、水を飲んでも眠ろうとしても罪悪感を抱くみたいなのはさすがに遠くなりましたが、 息子がいなくても最早大丈夫な自分 みたいに自分を感じるのが、許せないのかなと思います。これは多分、いま私の中で悲しみと並んでとても大きなものである自責と自罰の思いに、繋がっているのでしょう。
本当の私は、できれば布団に包まってひたすら悲しみ、後悔と自責に苛まれながら悶えている というのが、今は自然というか、平均値でそうありたいので、良いことがあると心が自動的にバランスを取りに行く みたいな状態かなと思います。
ちなみに、悲しんでいない時間が増えたとて、別に愛情に変化があるということではないということは、私も良く分かっているつもりです。そこは、人それぞれの向き合い方や気持ちの現れ方であって、時間とともに変わることもあるだろうし。
ただ、今の自分にとっては、そうではないと言うだけです。

なので、そう言う反応は今の自分にとって別におかしなことではない、、っていうのも変だけど、辛いからと言って抜け出したいということではないんですね。
ただ、家族は割と、行動としてもしっかり前向きにやって行こうよその方が息子のためでもあるよ派です。時々引き戻されたとしても、そうできるのならその方が良いのかなと人を見ていると思うし、何より家族にはそうであってほしいと思います。なのでそこは足を引っ張り過ぎぬよう、あまり私の内面は語れないなと思います。

ただ、自分の心の根本にある自責とか自罰の念は、どう向き合って行くのがふさわしいと言うか、あるべきなんだろう。
と言うことは常に考えていて。
人に聞いたら息子や今いる家族のためにやめた方が良い、って言われるのでしょうが、自分の中ではそれだけでは済ますことができない気がしています。
このあたりは、また書きます。


まとまりがないですが、今回はこの辺で。