【羽生結弦選手】今季の戦いは14日からカナダで始まる!! | 氷の世界

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  殆どテレビの観戦ですが、
長いこと見続けてきた
フィギュアスケートの話題を中心に
きままに独り言をまとめます。
ときどき、好きな本や演劇、
演奏会の話題も。

☆彡羽生君関連の記事をまとめただけのページでお恥ずかしいのですが。

クリケット・クラブについては自分でも興味がありもう少しちゃんと調べてみ

たいと思います。

都築コーチ関連のコラムの中に五十嵐文男さんのお名前を拝見して、かなり懐かしかったです。

都築コーチは、五十嵐さんとはあまり馬が合わなかったのかな?

今は、フィギュアスケートからも電通マンも退かれてしまったようで、どうしていらっしゃるの

だろうと思いだけ馳せました。

解説は、佐野さんより、数段五十嵐さんのほうが聴きやすくわかりやすかったと思うんだけれど

競技委員長とか中枢にいるのが性に合わなかったのかな??( ̄□ ̄;)

全て、推測ですが…。


… … …  … … … …  … … …カナダ

自分だけの表現力求めて 羽生、14日からカナダで今季初戦
毎日新聞 2015年10月08日 東京夕刊

2014年ソチ冬季五輪フィギュアスケート男子シングルの金メダリスト、羽生結弦(20)=ANA=が、カナダ東部のトロントに近い街バリーで開かれる、スケートカナダ・オータムクラシックで14日、今季の初戦を迎える。トロントにある「クリケット・スケーティング&カーリングクラブ」を拠点に練習を積んできた成果が、いよいよ試される。【田中義郎】

 このクラブは1827年に創設。スケート場のほか、クリケットやカーリング、プールなどの施設を備える。関係者以外は立ち入りが厳しく制限され、格式も高く、襟付きのシャツ着用などのドレスコードもある。

 スケート部門の顧問は、羽生のコーチで1984年サラエボ五輪、88年カルガリー五輪でともに銀メダルを獲得したブライアン・オーサー氏(53)ら。12年からここに拠点を置く羽生は「スケートのためだけに異国に来ている感覚がある。教室にいたら勉強しないといけないという状態にあるように、スケートに打ち込まないといけないという感覚」と表現する。

 今季は、ショートプログラム(SP)に昨季と同じショパン作曲のピアノ曲「バラード第1番」、フリーには映画「陰陽師」の劇中曲「SEIMEI」を選んだ。リンクでの滑走練習は毎日3時間程度。高い表現力が求められる曲調や構成も意識し、ステップの練習にも多くの時間を割き、ヨガやピラティスにも取り組んで体の柔軟性や筋力の向上に努めてきた。「SPはピアノ曲で審判の方がスケーティングをチェックしやすい。クラシック音楽という形がきちっとした中で自分の味を出すのは難しい」と試行錯誤を重ねる。

 スケートでは常に新たな挑戦に取り組む羽生だが、「私生活は全然チャレンジしていない」と笑う。スケート以外の時間は早大の通信制で学ぶほか、食事やリラックスに費やすという。食事は母・由美さんが栄養を考えて作り、外食は年に2~3回程度だ。

 昨季はグランプリシリーズ中国大会の練習中に他選手と激突するアクシデントや、尿膜管遺残症の手術を受けるなど、困難も重なった。その逆境を経たことで「自分の気持ちやストレス、練習法をマネジメントする能力はついた」と成長も実感している。今季は世界選手権(来年3月、米ボストン)で2年ぶりの王座奪還が懸かる。さらに18年の平昌五輪での連覇へ視線を向けている。「『絶対に金メダル』と思っていることはソチも平昌も変わらない」。トロントから、さらに大きく飛躍を遂げようとしている。

引用先は
http://mainichi.jp/shimen/news/20151008dde035050062000c.html

「クリケット・スケーティング&カーリングクラブ」
こちらのHPにページにフィギュア部門について書かれています。
 http://www.torontocricketclub.com/skating

スケートカナダ・オータムクラシック についてはこちらのページにまとめました。
 http://ameblo.jp/atomu5551/entry-12079421561.html

Y.H N杯会見 VTR メッセージ(Full Ver.)

Y.H N杯会見 VTR メッセージ(Full Ver.) 投稿者 YzRIKO

ショートURLは http://dai.ly/x38yuth


【スポナビ・コラム】から … … …絵文字を描く 3


☆彡恩師が見つめてきた羽生結弦の進化  
「五輪王者」という夢が実現した瞬間

スポーツナビ2015年10月7日(水) 11:00

「五輪へ行こう、世界一になろう」。都築章一郎コーチは当時小学校2年生だった羽生結弦(ANA)にそう語りかけたという。そしてそれから約11年後、その言葉は現実のものとなる。2014年に開催されたソチ五輪で、羽生は日本の男子フィギュアスケート選手としては史上初となる金メダルを獲得したのだ。幼い羽生の素質を見抜き、その才能を伸ばすために選手としての土台を築くことに尽力してきた都築コーチにとって、そうした苦労が報われた瞬間だった。

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「五輪へ行こう、世界一になろう」と羽生結弦に語りかけてから11年、その言葉は現実のものとなった【写真:YUTAKA/アフロスポーツ】

 現在、都築コーチは神奈川で子供たちの育成にあたっている。羽生の活躍が指導者としての情熱を維持し続ける力にもなっているようだ。「今はもうただ見守るだけですね。彼がどういう形で進化していくか。それが楽しみです」。都築コーチは過去を振り返りながら、かつての教え子の今後に期待を寄せている。

成長するために必要な条件を備えていた

――羽生選手に初めて会ったときの印象はどういうものでしたか?

 非常に賢い子供でしたね。精神的には細かくてややデリケートな部分はありました。羽生の家族も指導者の言うことに対して、しっかりと理解されていましたね。お姉さんがいて、家族の絆もあり、苦しいトレーニングのケアを精神的にも肉体的にもできる条件がありました。

――羽生選手を最初に見たとき、どういう部分が優れていると思いましたか?

 やはり繊細なものを持っていましたから、フィギュアスケートに必要な音楽的な表現や感性という部分を備えていましたね。あとは何かを得るために自分でできることをしていました。時代は違いますが(エフゲニー・)プルシェンコのビデオをかなり見ていて、それに影響され、そこからスケートへの想像力を養っていました。それと羽生の場合は荒川静香らと練習場所が同じで、うまくなる条件もありましたね。

――羽生選手と他の選手を比べて違うのはどういう部分でしょうか?

 それぞれ選手の特徴はありますが、羽生の場合は小さい頃から成長できる条件を備えていました。要するに羽生自身だけではなく家族などの環境です。お姉さんがいて、ご両親にも理解がある。そして羽生自身もそうした期待に応えられる人間性を持ち合わせていたというところが大きいと思います。

――一流選手になるためにはそういった条件が必要なんですね。

 やはり最低条件がありますよね。フィギュアスケートに必要な条件が100あるとすれば、羽生は100に近いものを持っていました。だいたい初めはどの選手も条件はそろっていないんです。環境やコーチによってだんだんと作られてくるのですが、羽生はそういったものを最初から備えていましたね。

小学校2年生のときに話したこと

――羽生選手は始めた当初、スケートにあまり興味を持っていなかったという話ですが

 そうですね。お姉さんがスケート教室に来ていまして、それに付いてきたのが最初です。そのときはぜんそくがあったので、ご両親も健康のためにお姉さんが行っているから一緒に、という形でスケートを始めたのではないかなと思います。だから、私と出会ったときはまだまだフィギュアスケートを始めて、初歩から少しうまくなったかなというレベルでした。

――都築コーチはどういう指導をされたのですか?

 佐野(稔)を育てた経験が、羽生を指導するにあたって大きな題材になったんです。羽生はどう思っているか分かりませんが、指導者としては早く、効果的に良いものを伝えることができたと思います。

――指導していた期間で一番印象に残っている試合はありますか?

 羽生が小学生のときに、初めて海外のノービスの試合に連れていったんですけど、そこで優勝したんです。練習した成果が出たなと思ったし、将来の大きな目標に向かって一つステップが上がったなと。そのときはうれしかったですね。これが土台になって世界へ羽ばたいていけるスケーターになっていくという感覚を持つことができました。

――小さい頃に土台を築くことがやはり重要なのですね。

 フィギュアスケートで一番大切なのはそれなんですよ。良いスケーター、世界へ羽ばたけるスケーターというのは、小さいころにしっかりした土台を作るというのが一つの生命線です。羽生の場合は、彼が小学校2年のときに私が「五輪へ行こう、世界一になろう」と話し、そういう土台作りをしてきましたから。それが実ってくれてものすごくうれしかったです。私がそのとき教えていなくても、彼が五輪のメダルを取ってくれたときは感謝して、「どうもありがとう」と言いましたね(笑)。

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ソチ五輪で金メダリストになった羽生。都築コーチは「先生もこのメダルを取りたかったんだよ」と言ったという【写真:長田洋平/アフロスポーツ】

――羽生選手は何と言っていましたか?

「みんなに喜んでもらえるかな」と謙遜していました(笑)。「先生もこのメダルを取りたかったんだよ」と羽生に言ったら喜んでいましたね。

――小学生の頃から五輪に行こうという話をされていたんですね。

 そういう夢を持って、そのために本人もご両親も努力していたと思うんです。たぶん、(13年の)グランプリファイナルで優勝したときに意識したかもしれないけれど、よもや五輪チャンピオンになるとは、羽生も思っていなかったと思うし、私も一つサイクルが早かったと思っています。ただそれぞれの運命、持って生まれたものがあった。それは人間的なものでしょうね。技術を生かせたのも、羽生自身に人間としてしっかりしたものが備わっていたからだと思います。

震災後は見守るしかなかった

――五輪で勝つまでは、東日本大震災もあり苦難の道を歩んでいたと思います。震災後はこちらのリンク(神奈川スケートリンク)で練習していたようですけど、再会したときはどういう様子でしたか?

 震災後に会ったとき、「この子は今後スケートを続けていけるのか」というのは感じましたね。4月から10月の約半年くらいは、私のところを行ったり来たりしながら、アイスショーに出ていました。そしてそのシーズン(11-12年)の世界選手権で銅メダルを取り、それがきっかけとなって五輪の金メダルにつながったわけですよね。今思えば、震災のときは五輪のメダルを取れたのが奇跡だったと思うくらい傷心していました。

1007-3羽生選手ロミジュリ
東日本大震災後の11-12シーズン、羽生は世界選手権で銅メダルを獲得した【写真は共同】

――言葉を掛けたりしたのですか?

 言葉を掛けるというよりは、見守るしかなかった状態ですね。技術を教えるわけでもなく、あの子がそういう状況からどうやって立ち直り、スケートにもう一回挑戦をするか。自分の当初の目標としている姿にどう回復していけるか。でも、そうした中でも彼は非常に冷静で、自分の技術に対して取り組む姿勢はしっかりしていました。それは大したものですよね。

――もう立ち直ったなと感じた瞬間は?

 やはり世界選手権ですね。3位という結果を残したので、立ち直ってくれたなと思いました。

――その後、カナダに拠点を移しましたけど、何か具体的に変わったなというところはありましたか?

 変わったというよりは、カナダにはスケーターを成長させる条件がありますから。彼の持っている技術が環境によって新たに芽生え、同時に海外のコーチとの出会いによって新しい欲望、彼の持っている本能が芽生えた。そしてさらに高い次元に挑戦するようになったのが現状である気がしますね。

羽生の活躍が力になる

――競技者としての羽生選手をどう見ていますか?

 周りの人に感謝の気持ちを持って常に取り組んでいますよね。そういう気持ちでスケートをやっていますから、練習に対して無駄なく、本当に集中して消化して取り組んでいます。短い時間でも自分で作り上げる能力を持っているスケーターですから、昨シーズンもけが(中国杯での激突)や苦しみを味わいながらも、良い形で終わり、新たな挑戦をしています。この1、2年で今後も含めて、彼の人生の中では一番苦しい思いをあの年齢でしたんじゃないでしょうかね。そういう意味では、厳しい経験をして今日がありますから、彼は強い人間になったと思います。周りが思う以上に、皆の期待に負けないくらい、自分なりの強さを持っていると思いますね。

――今後はどういう選手になってもらいたいと思いますか?

 彼にはたくさんの目標があります。たとえばジャンプでは5種類の4回転をやるといったことや、5回転という言葉も会話の中では軽くありました。同時にアスリートだけではなく、芸術家になってもらいたいと彼に伝えたこともあります。昔と違って、今はアスリートであると同時に芸術家であるということも要求される時代なので、そうなってもらいたいと彼に話したことがあります。

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都築コーチは羽生に対し、「今はもうただ見守るだけ」と語る【スポーツナビ】

――今の羽生選手にアドバイスがあるとしたら?

 いや、今はもうただ見守るだけですね(笑)。彼がどういう形で進化していくか。それが楽しみです。

――羽生選手の活躍は都築コーチの刺激にもなっていますか?

 私自身あと何年生きられるか分かりませんが、この年になって素晴らしいものを見ることができたし、そういうものを彼は与えてくれた。私は今も子供たちを教えていますけど、まだもう少し情熱を継続できるし、彼の活躍が私自身の力にもなっています。

(取材・文:大橋護良/スポーツナビ)

引用先は
http://sports.yahoo.co.jp/column/detail/201510020006-spnavi

☆彡その昔、

佐野氏がアイスショーでバック・フリップをしたこともあったらしい…Σ(=°ω°=;ノ)ノ

☆彡羽生結弦ら一流選手を育てた名伯楽  
都築章一郎の「本物」を追求した50年

スポーツナビ2015年10月6日(火) 15:30

2014年に行われたソチ五輪で羽生結弦(ANA)が金メダルを獲得したことにより、日本男子フィギュアスケートは新たなステージに突入した。羽生以外にも実力者を多く擁し、いまや世界でも有数のフィギュア大国として認知されている。しかし、かつての日本には諸外国とのレベル差を埋めようともがき苦しんでいた時期があった。そんな中、日本人選手として初めて世界への扉を開けたのが、現解説者の佐野稔さんだ。1977年に東京で開催された世界選手権で銅メダルを獲得。男女通じて日本人選手として初の快挙であった。


 その佐野さんを幼い頃から指導し、一流選手へと育て上げたのが都築章一郎コーチである。現在77歳。指導歴は実に50年以上を誇る。その間、多くの選手を世界に羽ばたかせてきた。そして日本男子初の五輪金メダリストとなった羽生もまた、小学校2年生から高校に上がるまで都築コーチの指導を受けている。日本のフィギュアスケートの土台を築いてきたと言っても過言ではない都築コーチに、指導者としての理念、教え子たちとの日々、今もリンクに立つモチベーションなどについて語ってもらった。

根っことなったのは佐野との出会い

――指導歴が50年以上になります。そもそもなぜ指導者になろうと思ったのですか?

 私は出身が名古屋なんですよ。高校まで名古屋にいて、日本大学入学を機に東京に出てきました。日本学生氷上競技選手権大会(インカレ)はアイスホッケー、スピード、フィギュアの3部門で競われるのですが、日大のスケート部には当時フィギュア部がなかった。総合優勝するためには、フィギュア部も新設して強化しなければいけないということで、私に声がかかりました。

 それで大学中に自分でも選手をやりながら、同時にコーチも兼ねていたものですから、スケートへの関心とつながっていき、指導を始めたというのが出だしなんです。そして甲府で行われた日大の合宿に私が参加したときに、小さいころの佐野を紹介されました。私にとって指導者としての最初の大きな出会いが佐野だったわけです。そこから50年近く経って、今度は羽生に出会ったというのが大きな流れです。

――佐野さんは当時何歳くらいだったのでしょうか?

 小学校2年生くらいだったと思います。私は大学を卒業してから東武百貨店に就職したのですが、実は勤務先の池袋にスケート場があったんです。そこでスケートの授業をしながら、指導をしてくれという依頼がありました。それと同時に佐野と出会ったものですから、初めは土日に私が甲府に行って教えて、小学校5年生くらいからは佐野がこちらへ出てきました。佐野が私の家の近くに下宿し、一緒に取り組んだのが佐野が大学2年生のときまでです。佐野は77年の世界選手権で3位となり、日本人で初めてメダルを取るようなスケーターに成長しました。それが私のスケート人生の大きなキーポイントとなって今日に至ります。

 今振り返ってみますと、こうしたことが大きな一つの根っことなったのかもしれません。そして羽生と私が仙台で出会って、ある意味、集大成となった。羽生とのマンツーマンで小学校2年生くらいから教えるようになり、高校1年生くらいまで指導を長々とやっていました。その間には私が仙台から東京に戻ったり、羽生がこっちに来たりと、佐野のときと同じような形でやっていたんですね。

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76年のインスブルック五輪に出場した佐野稔さん。77年世界選手権では3位になるなど、世界の舞台で活躍した【写真:山田真市/アフロ】

――指導してきた中で印象に残っている選手は?

 男子ではやはり佐野ですね。佐野と同時並行で五十嵐文男という選手がいまして、彼も世界選手権で4位になりましたが、慶応で1人っ子でやっぱり東京の子だなと思いました(笑)。今はコーチになっている長久保裕なんかも、佐野と一緒に下宿していました。長久保はちょうど同じ時期に私が指導していたし、今も非常に活躍しているコーチですね。それから無良隆志もいました。これは松戸なんですけど、私と一緒に下宿していましたし、男子ではだいたい現在活躍しているコーチたちが、若いときに私と一緒にスケートに取り組んでくれていました。

 女子ではペアの井上怜奈がいましたね。あの子は3歳のときから私がだっこしていました(笑)。現在だと、ロシアに行ってペアでやっている川口悠子、それから高橋成美なんかも小さい時に私のもとでやっていましたね。全日本選手権で優勝した横谷花絵なんかもいました。それとアイスダンスでは私の子供(都築奈加子)がやっていましたし、日本では環境が良くなかったこともあり、ロシアの選手と組ませていました。私の大きな夢は、世界に通用する本物のスケーターを作ろうというものだったんです。たくさんの子供たちと出会い、共にやってきた50年でした。

3回転を跳ぶことが大きなテーマだった

――本物のスケーターを作るために、具体的にどういうことをやってきたのでしょうか?

 当時は人材を選択できるような環境が日本にはなかったんです。だから出会った子供とまず取り組み、その子にシングル、ペア、アイスダンスをやってもらって試行錯誤をしながら、海外の選手とカップルを組ませたり、向こうへ行ったり、とにかく良いものを作ろうとしていましたね。

 そういう意味で羽生の場合は、初めから世界に羽ばたいて、本物のスケートを作ろうと2人で話しながらやっていました。昔は日本で3回転ジャンプを跳べる選手がいなくて、見る環境もない中で、何としても3回転を跳ぼうというのが大きなテーマでした。佐野が日本の選手として世界の舞台で初めて3回転を跳んだというのも、本物を追求した結果だったんだと思います。

――本物を追求するという考えでやっていたのは、都築コーチが若いときから世界との差を感じていたから?

 そうですね。いつも背景にそれがあります。あまりにも世界と日本のフィギュアスケートは差があった。環境もそうですけど、選手たちの状況を見ても、やはりこれを打破するには本物を作り上げるしかないと。今みたいに情報も簡単に取れませんし、こちらが海外へ行ったときに初めて世界の流れが見えて、そこで感じるというようなステップでしたから。本物を作るために非常に回り道をしたと言いますか、時間をかけました。ですから、時間をかけることに耐えた子供たち、同時に彼らの家族の絆に守られて達成できたと思いますね。

――具体的にどういう部分で差があったのですか?

 フィギュアスケートは当時まだ日本ではレジャーみたいなものでしたけど、海外では文化になっていました。歴史がしっかりあって、指導者も日本よりたくさんいる。育てる環境がそろっていましたから、その点が大きな違いです。スケート場にしてもレジャーのものはあっても、それ以外のものはない状態でした。今思えば本当に大変だったなと記憶していますね。

――現在はそれなりに整ってきたという実感はありますか?

 今は海外からの情報もたくさんあり、技術も上がってきました。組織も良いものを作るための環境が整ってきましたし、自分と佐野がスケートを始めた頃と現在では全然違います。そういう意味で羽生の場合は「ないない」と言いながらも、昔と比べたらある程度条件がそろっていた点で違いますし、短い期間で五輪チャンピオンまでたどり着けたのも納得できますね。

佐野を育てた経験が羽生の指導に生きた

――佐野さんを育てた経験が、他の選手を指導する際に生かされた部分はあるのですか?

 私が言うのもおかしいですけど、佐野を育てた経験が羽生を育てるときに役立ちました。短い期間で伝えることができ、指導の仕方や環境を作り上げる点において容易になっていた背景もありました。佐野の練習量に比べれば、羽生は3分の1以下くらいでああいう形になったと思いますね。男子を導いていく上で、私はすでに佐野で苦労していた。羽生の場合はそれが私の根っこにありましたから、効果的にあの子を導くことができたと思います。

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佐野さんを育てた経験が、羽生(写真)を育てるときに役立ったという【写真:アフロスポーツ】

――佐野さんを育てるときはやはりまだ手探りだった?

 もう本当に手探りですね。とにかく何もない状態で、当時はコンパルソリーという規定もあった。今とはルールも違いましたけど、一つの良いものを作るための条件は全く何もなかったんです。日本独自の指導でどうにかするには、非常に大変なことでした。そういう意味では、佐野に関しては日本人だけの手で作った選手なんですね。

 羽生の場合は海外に行き、海外のいろいろな人たちの協力を得て、ああいう形にでき上がりました。でも昔はコーチのレベルも低い、環境もない、選手たちも周りに見本がない、何もない状態でただ先生と家族と本人の絆だけでやってきたというのが事実なんです。そういう点では第1期生が佐野であったということは、非常に良い子供や家族と出会うことができたという意味で、私にとって大きなプラスだったと思います。

――佐野さんを指導する上で大切にされたことは?

 激しい訓練もしますから、精神的にも肉体的にも耐える子供であると同時に、それをバックアップする家族の存在が佐野にはあったということが、私にとっては大きなプラスでした。それがなかったら、私のトレーニング方法では付いてきてくれる子供はなかなかいなかったと思います。

――それくらいハードだったと?

 はい(笑)。本当にもう気が狂うくらい練習を繰り返しましたし、またそれをやってくれました。だからこそ継続できたわけで、継続の中からいろいろな技術が生まれたんですね。

――羽生選手を指導したときは、佐野さんのときのように気が狂うほど練習したわけではなかったのですか?

 いや、そうしていたら続かなかったと思いますよ(苦笑)。私は佐野の時代にそういうことをやってきたから、羽生と出会っても冷静にあの子に伝えることができた。同時に条件的に何が必要かというのも、佐野を指導したことでよく分かっていましたから、ご両親にも「こういうことが必要です」と言うことができた。それに対して、ご両親も非常に協力的にやってくれていたということも大きかったですね。
フィギュアスケートを文化にしたい

――現在77歳ですが、今も第一線でコーチを続けていられるモチベーション、原動力は何なのでしょうか?

 本当は井上怜奈で終わりにしようと思っていたんですよ(笑)。自分の集大成にしようかなと思っていたんですけど、それが仙台で羽生に出会って、新しい意欲が生まれたんですね。そして今は神奈川にいる。佐野と最初にスケート場を作ったのが神奈川だったんです。だから、もう一回出だしに戻って神奈川で骨を埋めるのかなって思ったりもしていますね。今では羽生を育てたときのことを思い浮かべながら、小さい子供たちを指導しています。

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神奈川スケートリンクで子供たちを指導する都築コーチ(中央)【スポーツナビ】

――羽生選手と出会ったことで都築コーチの指導者人生も変わったのですね。

 そうですね。ルールも変わりますし、常に進化しないといけない。基本的な物の考え方というのはたぶん佐野と出会ったときと変わっていないですけど、技術的な部分に対しては変わらざるを得ないので、変化していると思います。

――現在は青木祐奈選手(神奈川FSC)を指導していらっしゃいます。

 まだ青木を指導している期間は短いですが、今も羽生を育てた経験が彼女に生きる形になっています。指導を継続できる自信、燃えるものを羽生が作ってくれました。そして青木だけではなく、たくさんの子供たちがスケートを好きになって、夢を持つ素晴らしい人間が誕生する環境を作りたいなと思っています。

1005-5青木選手と奈加子さん
都築コーチ(右)は現在、13歳の青木祐奈(中央)も指導している【写真:アフロスポーツ】

――指導者として今も昔も変わらず大切にされていることは何ですか?

 変わらないのは、フィギュアスケートが好きであることと、情熱を持っているということですね。佐野に出会ったとき、羽生に出会ったとき、そして青木に出会ったときもほとんど同じです。進化していないですね(笑)。選手をうまくしたい、何とかしたいという気持ちだけは何十年前から全然変わらないです。時代、社会、取り巻く背景、技術も変わったんですけど、フィギュアスケートに対して良いものを作ろう、本物を作ろうという気持ちだけは今も昔もずっと持ち続けています。

――現在の目標を教えてください。

 フィギュアスケートはまだまだ日本では文化になっていないので、文化にして皆さんに楽しんでいただきたいと思います。フィギュアスケートを通してたくさんの子供たちが出会い、このスポーツを将来もっと発展させてくれる子供たちを作り、出会いをを大切にしながら継続していきたいなと思っています。

(取材・文:大橋護良/スポーツナビ)

引用先は
http://sports.yahoo.co.jp/column/detail/201510020005-spnavi


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ANA2016年カレンダーの販売

「ANA 2016 カレンダー」、今年も充実のラインナップ!~VIEW FROM THE COCKPITカレンダー、TEAM ANAカレンダーなど新作を含む全12種類~

全日空商事株式会社

2015年10月8日 / 14:00 提供元: ドリームニュース

全日空商事株式会社(本社:東京都港区、代表取締役社長:西村健)は、ANA公式ECサイト「ANAショッピングA-style(エースタイル)」にて毎年ANAカレンダーを各種発売しており、美しくダイナミックな画像で毎年好評をいただいています。
全日空商事株式会社(本社:東京都港区、代表取締役社長:西村健)は、ANA公式ECサイト「ANAショッピングA-style(エースタイル)」にて毎年ANAカレンダーを各種発売しており、美しくダイナミックな画像で毎年好評をいただいています。
2016年版のANAカレンダーも本年8月より順次予約販売を開始しておりましたが、新作のANA女性スタッフの素敵な笑顔が集う「TEAM ANAカレンダー」が10月8日に登場、全12種類が揃いました。

2016年版は、国内外の風景をANA所属のフィギュアスケートの羽生結弦選手や卓球の福原愛選手、ANAスタッフが解説するARコンテンツが付いた「Welcome Aboard」や、ANA機の雄姿を捉えた「ANAフライトカレンダー」、世界各地の絶景を巡る「ANAグラフィックギャラリー」など定番カレンダーに加え、幻想的な空港の夜景が楽しめる「ANA Twilight Airport」などが今年もラインナップしています。そして2016年版の新作カレンダーは、「ANA VIEW FROM THE COCKPITカレンダー」、「ANAスターアライアンスカレンダー」、「TEAM ANAカレンダー」の3種類となっています。

以下略…

Welcome Aboard 

ANAスタッフが国内外の現地情報を動画と音声で解説するAR機能付き。3月はフィギュアスケートの羽生結弦選手が松島(宮城)を、5月は卓球の福原愛選手が峨眉山(中国:成都)を紹介します。
サイズ:75.3×39.0 価格:2,160円     
※ARコンテンツの利用は専用アプリのダウンロードが必要です。

ANAカレンダー2016特集:
http://www.astyle.jp/disp/CSfSpeDispListPage.jsp?link=middle_01&dispNo=020001022


引用先は
http://www.dreamnews.jp/press/0000120549/

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