かたずけがはかどる日だ
さふぁいあ
また、続きを書き記しましょう
日本に現存する財宝歴史的なものといえば、三種神器が最も最古で
文化財的宝だ
ところが、三種の神器の詳細を知る者は歴史の専門家でも少ない
そもそも、「正確な知識」などというものは存在しないかもしれないのである
まさか
所在そのものがはっきりしていない
皇居にあるんじゃないの?
現在、皇居に存在する三種の神器のうち、勾玉 以外 の 剣と鏡は
レプリカなのだ(複製) という表現はふさわしくない
正式には、「形代」と呼ぶ
儀式の際、本物の代わりに使用するものだ
「形代」には神の御霊が宿っているとされているからだ
かならずしも本物と同じ形をしている必要はないらしい
「らしい」と表現したのは今まで本物を誰も見たことがないからである
本物の形状がわからない以上、「形代」が本物ににているかどうか
確かめようがない
では本物はどこにあるのか?
八咫の鏡は「伊勢神宮」
草薙の剣「熱田神宮」
とされている
されるという表現は
誰も本物を見たことがない
伊勢神宮の八咫の鏡は密閉された箱の中におさめられている
20年に一度行われる式年遷宮の際、箱の上から白布で覆い
人目に触れぬよう深夜に運ぶことになっている
草薙の剣の所在には、異説がある
平家滅亡の折
壇ノ浦の戦いに敗れた平家方の尼が幼き安徳天皇を抱いて海に身を投げるが
そのとき、草薙の剣も海に没してしまう
失われた草薙の剣は捜索されるも結局発見されていない
現在では、この時失われたのは「型式」であるとわれている
が
本物であるという専門家もいる
調査依頼が行われた小野寺氏の神器
「三種の神器」はだれも見ることができない、、、
天皇陛下でさえ実物を見ることは許されないのである
(削除)
一方、ひるがえって小野寺氏の場合はどうだろう
南朝の正統な血筋を引くという彼もまた「三種の神器」を所持している
そして彼はその三種神器を自分の眼でしかと見ている
小野寺氏の神器はオープンなのだ
彼は、三種の神器の鑑定 調査を公的機関に依頼している
専門家にも依頼している
タブーは取り払われているのだ
かたや、誰も見ることのできない三種の神器
どちらの側に信憑性があるのか???????
改めて言わずともしれたようなもの!!!!!!!
東北を基盤とする黄金の国
ジパング
おそらく現存する日本の文化財や美術品の中で
三種の神器 より 重要性の高いものはない
それだけ価値の高い唯一無二の神宝を公的機関の援助を受けず
個人が数百年にわたり守り抜き受け継いできたというのは
まさに驚くべきこと
どこにしまってるの?
祭壇は?
どうやって維持してたの?
神の神聖な宝物を?
小野寺氏によれば

ひとつは地理的な要因なのです
千福屋形の一族が勢力範囲としていた東北地方のある大きな特色が
南朝皇統の経済面を支えてくれたということではないか
では では
東北地方の ある 大きな特色とは
黄金 黄金 黄金 黄金 黄金である
「むかしから(おうごんはなさくみちのくの)」と 歌にある
ように、黄金は東北地方で大量に採取されてました
実際小野寺家に伝わる 「衣川金山録」という文書には
その当時の東北地方の金山の所在地が事細かく書き記してあります
*これらの採取した黄金は
いつの日か再び朝廷を開くときのための準備金として蓄えていた
と考えます(小野寺氏)***
確かにかつて日本は「黄金の国ジパング」と呼ばれていた
実際に黄金の国だった
16~17世紀の世界の金の総産出量は年間10トン未満にすぎなかった
が
その半分以上は日本から産出されたもの
江戸時代に鋳造(高熱で溶かした金属を、、流して器をつくる)
このように江戸時代には大判、小判は総計で200トン以上の登る
200トンを超える金を貨幣として流通させていた国など
当時日本以外に存在しない
比喩ではなく日本は文字通りの「黄金の国」だったのです
東北の豊富な黄金が南朝系天皇を
支えた
そしてその黄金の大半は東北地方で採取されたものである
時代は少しさかのぼる
藤原氏の詠歌の象徴とも言える平泉はまばゆいばかりの
金色にひかり輝く黄金都市であった
緊迫で覆い尽くされた寺、堂、仏像
さらに平泉では何千巻物経文の文字さえ、金と銀で描かれていた
それだけの金や銀が当時の東北地方では産出できたのである
若き源義経が京を脱出する際、金売り吉次なる人物が道案内人となって
奥州までの道程を同道するさまが、「義経記」などの物語に書かれている
この金売り吉次は、奥州でとれた黄金を京都まで運び
売りさばくのが仕事
ということは、東北地方で採れた金が京都にまで流通するシステムが
出来上がっていたのだ
みちのくは、黄金の国 ジパングを支える日本の「黄金郷」だったのである
この地方に
大きな勢力広げていた千福屋形の一族がその支配地の各所から
採取した豊富な金、銀で南朝の皇統を支えていたことは
もはや疑いようのない事実であろう
また、時代は下がるが幕末も大詰めの慶応4年、会津藩内で「会津銀判」とよばれる
銀判が大量に出回った
この銀判は戊辰戦争(ぼしんせんそう)に備える武器調達費用として
利用されたのが実に不思議だ
何とも奇妙なことに表には「十六花弁の菊花紋章が」おおきく
刻印してあったのである
いや、ちょいおかしいではないか???
会津藩は「徳川方」
その会津藩が使う貨幣に、なぜ、十六花弁の菊の紋章が???
しかし理由は明白
この菊の紋
京都にいる天皇家ではなく
東北にいる南朝の天皇家を表している
つまり
このとき、南朝の皇統が戊辰戦争(ぼしんせんそう)の軍資金を用立てたという証が
この会津銀判に残されているというわけだ
この一事をもってしても、千福屋形一族の手で東北各地から
集められた大量の金や銀が、幕末に至るまで潤沢に蓄えられ
ており、それが南朝の皇統を支えていたことがよくわかる
( ゚ ▽ ゚ ;)*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆
今日はここまで
次回は、「海外貿易と黄金」
千福屋形一族のもう一つの財産とは
「糸割符貿易」なんですよ
詳しくは次回お楽しみにね
つづく