みなさん、ばて気味の毎日を過ごしている
方も多いと思いますが私もその一人です。
パソコンもばててます
それでは続きを始めます
南朝断絶の記録は公式文書には見られない
南朝の血が途絶えた、、、!?
いや、おかしいそれはおかしい
前回で紹介した小野寺直氏は南朝の正統な血筋を引く人物ではなかったか?
途絶えたはずの南朝の皇統が、なぜ現代にまで受け継がれているのか
実はここに南北朝時代の最大のミステリーが隠されている
そしてこのミステリーが解明されることを時の権力者たちは
ひたすらに恐れていた
彼らにとってきわめて都合の悪い事実が底に秘められているからである
では
南北朝時代の最大のミステリーとは一体どのようなものか
ここはひとつ小野寺氏の口から事の顛末を語ってもらおう
「南朝の自天皇ヲ殺害したとされる赤松氏の残党とは、その十数年前
に足利義則を暗殺した罪で滅亡した赤松満祐(あかまつみつすけ)
の遺臣たちのことです
彼らは長い間赤松氏の再興を夢見ていました
そこに、持明院統側からうまい話が持ちかけられました
南側に奪われた三種の神器を取り戻してくればお家の再興を許そうではないか
と
彼らはこの話に飛びつくわけです」
持明院統側のめいをうけた赤松氏の遺臣たち二十数名は
深い雪を分け入って吉野山に潜入
真夜中に天皇の寝床を襲撃した
まだ18歳だった若き自天皇を殺害し三種の神器を奪い去ったのである
このとき、襲撃に参加した上月光義がかきのこした「上月記」には
次のように記されている
「一、次年長禄元年丁丑十二月二日夜半子刻、丹生屋帯刀左衛門尉
同四朗左衛門尉 、吉野の奥、北山に於いて南方の一宮を討ち
奉る(中略)
小寺藤兵衛入道不思議の之 了簡廻して重面神璽(しんじ)を
とりかえし奉る(たてまつる)」
北朝側はこの報告書を了承
彼らの証言をそのまま受け取り、南朝は断絶したとそのまま宣伝した
そして、赤松氏の遺臣たちは事前の約束のとおり
念願のお家再興が許されることになったのである
が、しかし
この話には実はちょいと不審な点がある
というのも
南朝の断絶という皇統の一大事が不思議なことにほかの記録では
ほとんど裏ズけることができないのだ
赤松氏の残党の自己申告が何お客観的証拠もないまま鵜呑みにされ
いつのまにか、既成事実として広められているのである
しかも彼らは、言うならば私兵だ
正規の軍ではない
彼らは目の前にぶら下げられた「お家再興」という報償を手に入れるためなら
手段はとわない
早い話が懸賞金稼ぎである
彼らの証言の信ぴょう性はかなり低いと言わざるを得ない
では
他に事の顛末を記した記録は存在したのだろうか
いや~~じつは~~~あるのだよ
しかもそれは公式文章に準ずるものであり記録としての信ぴょう性も非常に高い
ただ驚くべきことにその文章には赤松氏らの証言とは正反対の事実が記されている
お家再興のために
創作されたことの顛末
再び小野寺氏に語っていただこう○●○●○●○●○●
「持明院統方の最高責任者である九条関白藤原経教(ふじわらつねのり)の子
で、大和の興福寺大乗院の門跡でありました大僧正教覚という方がいらっしゃいました
この方の記した「安位寺殿日記」の長禄2(1458)年4月16日の条には
次のような記載が残されています
「神聖ノ事先年内裏焼失ノ時、賊人之を取り今二出現セズ。然る二今春二
宮ヲ川上二於いテ打ち奉るのち、一宮は奥二引篭ラレル。
神聖二於いて者川上ノ母上公の所二預ければ此の段、小川弘光存じせしめて
悪党盗人取了」
ここで書かれている一宮とは
自天皇のことです
しかし、これはおかしいですよね
赤松氏が長禄元年、には打ち取っている自天皇が、こちらの記録では
長禄2年にまだごご存命で「奥に引きこもられた」とあります
つまり正反対のことが、、、、!!!
さあ、どうしたのでしょう!!!
どちらかがウソをついている
では正しいのはどちらなのでしょうか???
こうしてみるとどちらに信憑性があるかは、すぐわかりますよね
つまり つまりこういうことだ
あかまつしの遺臣たち、たとえ嘘をついてでも家を再興したいという強い動機
がある
赤松氏が取り壊されてから十数年
やっとめぐってきたこのチャンス
逃がすわけにはいかない
たとえ、襲撃に失敗しても事の顛末を見ているものは自分達しかいない
たとえ失敗したとしても嘘をつきとおすしかない
それしか道はない
一方
持明院統側も、彼らの証言を額面通り受け取ることには異存はなかった
なにしろ、表向きはこれで、南朝は断絶したと宣伝できる
さらに、三種の神器も取り戻したことになるのだから
天皇家としての自分たちの正統性がゆるぎないものとなる
持明院総側と赤松氏、双方の思惑がピタリと一致したのである
そのご、自天皇の行方は!!!
自天皇は、東北出羽に身をお隠しに
なられました
つづく