日本の国に生まれたからには
日の丸を背負う意思を腹に入れる
それが日本の男としての使命とす
敵艦隊200
空からも300以上
雲間に見えなくなり打つことができない大和
兵庫県の山深 若者が大和へと乗っていた
兄貴とおれも
戦争と共にある兄弟
俺の故郷では180人が帰らんかった
竹田三郎第40連隊 名誉であります
竹田ゆみ 母
S12 日中戦争始まる
村の人が
英霊の母になった人がたくさんいます
名誉のことです、、、と口々に
二男は海軍
昭和18年 明も19歳海軍を志願
高角砲戦闘
伊藤誠一 沖縄突入
称賛無き特攻 「大和に死に場所を与えるべき」との声
当時女学校16歳広島県呉から
「大和のみんなは沖縄を助けに行くんじゃ」と言っていました
見送りの時、そんな言葉を聞きました
大和の左舷に砲撃10発以上
「兵士が、がんばれーがんばれー」というのが聞こえた
大和が好きだから一緒に海の藻くずとなる事を考えた
「現在腰まで水が来てます」
「脱出できません」そう言ってから声が聞こえなくなった
大和転覆
水の底に吸い込まれた
意識が遠くに 母の姿が見えた
そのとき、大和が大爆発
天高く噴煙が登る
はっときがつくと
海の底
大和の爆風で息を吹き返したわたし
鉛を焼いたような空の色
浮いた者は、歌を歌った
「夕焼け小焼け ちいちいぱっぱ」
救助に来た駆逐艦に助けを求めた
「人の足にも つかんだ」
「私の足をつかんだものは、、、」
3332人 276人
多くの命が消えてゆきました
失われた命 生き残った命
村に帰っても
居心地のいいところはない
子供に言われた「大和に乗った人はみんな死んだんじゃないんですか」
責められたように感じた
だから、大きな声で言えなかった
三重県桑名市 かつて16歳で大和に乗った山口さん
「手をつないだ戦友が海に沈む 渦の中にしずんだ」
助かったものはすぐ村に帰ることをためらった
兵庫県の田舎に帰ったのは終戦の翌年春
明は帰った
明は本家に婿に入ることになる
生き残った者の務めと言われ
「はい」とうなずいた
結婚し村に残った
80歳を過ぎるまで「大和」のことを口にしませんでした
そして、忘れることはできません
「兄貴も死んでよかったかもしれん
二人とも助かって帰ると苦しかっただろう」
「わたしは大和にあこがれ た 」
「忘れたことは無い 4月7日あの日の雲を」
今は簡単に「バカな戦争をしたと言うけども、、、」
「無駄な戦士ではないと思っている」
「そう思いませんか」と問いかけるおじいちゃん
「大和は好きだったよ、、ほれぼれするよ」
「青春だったよ、、、言いも悪いも」
「あれが大和の男かと後ろ指刺されたことは無い」
「わしも北枕で寝てます」
岐阜県の亀山さん、も生きてます
毎朝裏山に行き「戦死した戦友に手を合わせに行きます」
「ほれぼれするよ,戦艦大和は、、俺はすきだよ」と
言ったおじいちゃん
戦友のことは死ぬまで忘れないんですね
当然ですよね
今も凛々しい90歳
生き恥と言われた戦後の時代をよくここまで生きてくれました
そしてよく私たちに教えてくださいました
ありがとうございます
大正昭和ののじっちやんはやはり強いです
よく生きて帰ってくれました
語り継ぐものとしてこれからも長生きしたください
背筋を伸ばして聞かせていただきました(2012年12月8日NHKTV)