大鳥神社の家紋(灯篭に描かれている)が我が母方の祖父が眠る墓の紋と同じであるので載せてみました
古代の大鳥神社は数回の火事で焼失し今に至る
国法に指定されている
○由緒
当社は醍醐天皇延喜式神名帳所載の名神大社であり、月次新嘗の官幣に預かり、和泉国一の宮として、歴代皇室の御尊崇極めて篤く殊に防災雨祈の御祈願社八十五社の一つであって、屢々臨時奉幣に預かり、御神階も清和天皇貞観3年7月には従三位に叙せられ、後正一位の御昇階になりました。
御祭神日本武尊様は景行天皇の第二皇子で、その武勇は広く知られるところでありますが、社伝によりますと日本武尊が東夷御征討の帰途、俄かに病にお罹りになり、伊勢国能褒野に於て薨去遊ばされ、その御屍は白鳥と化して飛び去り給ひ、最後に当所に来り留まられましたので、社を建立して尊様をお祀りしたのが当社の起源であって今から約1850有余年前であります。
又、大鳥連祖神様は、此の和泉国に栄えた神別であられ大中臣と祖先を一にする大鳥氏と言う部族の先祖をお祀りしたもので、新撰姓氏録には天児屋根命を祖先とすると伝えられて居ります。当社は明治4年5月祭神日本武尊として官幣大社に列格になりましたが、明治9年1月天覧に供しました官社祭神考証に於ては、祭神大鳥連祖神とせられ、明治9年以来この説が公のものとせられていたので、爾来当社歴代の宮司は度々御祭神の御変更方を稟請致しましたが、遂に明治29年10月3日付を以て、「上奏相成候官社祭神考証に於て大鳥連祖神と確定相成居候条左様御承知有度」との時の内務省社寺局長の通達回答がよせられて、当時としてはこれ以上は神社側の主張を通す方法はなかったのでありましたが、偶々昭和32年6月28日付にて、祭神日本武尊増祀の御允許を得ることになり、茲に御祭神に関する問題も決裁し日本武尊様を主祭神とする弐座の御社となり、御神慮に御応へ申すことが出来たのであります。
御祭神の御神徳は文武の神として、累代の武家の崇敬が篤く、平清盛、同重盛父子が熊野参詣の途次、当社に祈願し、和歌及び名馬を奉献したのを始めとして、織田、豊臣、徳川の三武将も社領の寄進、社殿の造営等を再度の亘って奉仕して居ります。又、聖武天皇の御宇には、僧行基が勅願を奉じて、この地に勘学院神鳳寺を建立しましたが、明治維新の神仏分離によって廃寺となりました。
○堺市鳳中町に鎮座。和泉一宮で、日本武尊の白鳥伝説や古い社殿様式(大鳥造り)で知られ、約5万㎡の境内は「千種の森」とも呼ばれる。(大阪・神戸地名小辞典:三省堂)
○市西部、JR阪和線鳳駅の北東約300mに鎮座。祭神は日本武尊、大鳥連祖神。和泉国一宮で旧官幣大社。日本武尊が死後白鳥となってこの地に飛び来ったのに始まると伝える。本殿は大鳥造りとよばれ古い社殿様式を残す。5万㎡もの境内には四季折々の花が咲き、4月13日に花摘み祭が行われ、菖蒲園も知られる。(日本地名大百科:小学館)
○日本武尊の化身の大鳥伝説が残る和泉一宮
日本武尊は、伊勢の国で逝去すると大鳥に化身し、最後にこの地に来たと伝える。明治4年に土地の神である大鳥連祖神を合祀。境内一帯は「千種の森」と呼ばれ、多数の樹木による景観が美しい。両神を祀る本殿も、落ち着いた色彩で力強い。出雲の大社造によく似ているが、階段が中央にあり大鳥造と称する。大社造、神明造と並ぶ日本古来の建築様式である。(神道の本:学研)