前回ブログを書いた冬至の日に
祖父が亡くなった。

持病があるとはいえ
その日は突然やってきた。
この前会ったばかりだったのに…

でも86歳まで自立して生活していて
この年齢まで生きられたからか
お疲れ様でしたと穏やかに見送れた。

おじいちゃんは向こうで
どんな風に人生を振り返るのかな。
娘とはもう会ったかな。


年賀状も祖父のことがあったから
出さずに(すんで)
寒中見舞いにすることにした。

おめでとうを言えなくて
出すべきか出さないべきか
ずっと悩んでいたから…
おじいちゃんが助けてくれたように
感じてしまった。



それにしても…
ここ数年私に起こる出来事は

生と死
命のつながり
生きるということ

を痛烈に考えさせられることばかり。


どうしたって
このテーマに向き合わざるをえなくて
神様かなにか大きな力が
そうしてるとしか思えない。




娘をなくして2回目の冬を迎えても
悲しみや寂しさは変わらず。

むしろ娘との日々が遠ざかるようで
それがとてもつらい、、


次男が生まれて
とても癒されているし
笑顔になることも増えた。

心を許した人に会うときは
笑って話すこともできる。


でもだからといって
立ち直ったわけでも
乗り越えたわけでもない。

そもそも乗り越える必要なんて
ないと思う。


乗り越えるって
その対象が障害のような感じだ…

山を登って降りて
先に進むことが求められるような。
だから違和感があるのかな。


私は
娘の死を障害とも思いたくないし
過去のこととして
置いて先に進むのではなく

自分の人生にどう寄り添わせて
ともに生きるかを模索していきたい。


この経験で味わった感情も
全て娘のくれたプレゼントのように
大事にしたい。


でも悲しむだけじゃなく
自分の認識をもっともっと広げる。

自分の見えてる世界だけじゃなく
知らないこと 見えないものを
どんどん知って

今の娘の存在を
自然に感じられるように。

姿が見えないだけで
今も変わらずに存在してることを
体感できるようになりたい。



私だって明日死ぬかもわからない。

明日亡くなるなら
苦悩して泣いて終わるより
心地よく満ちて笑って終わりたい。


人は必ず亡くなる。
大事なのは亡くなり方ではなく
どう生きたかだと思う。

ここ数年でいくつもの死に直面して
改めてそう感じる。


日々の生活や起こる出来事に
どう向き合ってどう過ごしたか。

人生の長さは関係ない。

長く生きれば生きるほど
執着や手放せないものも多くて
それはそれで大変そうだった。


娘のように
遺された人が思い出すイメージが
明るいものであるように
生きていきたい。


そんなことを想う
2018年の始まりだった。


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昨日買ったお花。
とてもいい香りのするスイートピーを
おまけにくれて嬉しかった。

娘にも届いているといいな。