悼む人  天童荒太 | 基本、ビーズ織りnote

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【箱は笑いで満たされた。】
改題

最初の5ページで面白いと思った。

静かな人の話を私としては珍しくゆっくり読んだ。

事故や事件で人が亡くなった場所を訪ね歩き、故人のことを忘れないと胸に刻む静人。―悼む人。

重い話を重く書く天童荒太の直木賞受賞作品。

二国沿いを歩いていると道路わきに花が飾られているのをよく眼にするが、

ここで事故があったという事実を思うだけで

その状況や、ましてや人物にまでは思いが至らない。

坂築静人は亡くなった人が

<誰に愛され、誰を愛し、どんな感謝をされたか>を遺族や知り合いに尋ねながら、

一人一人の生きた証を胸に刻み、決してそのことを忘れないと誓う。

そして忘れてしまうことを罪のように恐れる。

忘れたくないなら、遺族の憤りにも耳を傾けて

そのときの感情を想い出した方がいいようにと思うが、

死を公平に悼むためにまた遺族の感情までは抱えきれないのだろう、

ある意味割り切って淡々と死に向かい合う。

3年前の作品「包帯クラブ」はこの人には異色な感じがしていた。

でも、心や身体が痛い思いをした場所に包帯を巻いて行くという行動を起こした高校生も

「悼む人」と同じところにいると思えた。

ただ「包帯クラブ」の万人向きに比べて

「悼む人」は人それぞれがまるで違うことを感じる本だとは思う。


この話は、悼んで歩くということが異質でそちらに目が行ってしまうが、

自分が主役じゃない人生を想像できること、

自分以外の人の人生にとっては

自分はわき役だという認識を持っていることの大切さを伝えようとしているように思った。

そういうことに思いを馳せることが出来ない人が悲惨な事件を起こすような気がする。

坂築静人のこうでありたいと望む静かだけど強い気持ちは高さではなく

一直線みたいな感じがする。

一人一人の死に対して、

悼みを公平にするために殺された人と殺した人を同じ死にしないように自分の中でルールを作る。

自分が幸せになること、人の死を忘れてしまうことを恐れる。

生きているのと同じに死にも公平なことはないし、

そうある必要もないと思ってしまう俗っぽい私は

そんな生き方が怖かったり疎ましかったりと思う気持ちも否めない。


「永遠の仔」の誰かに褒めてほしい、認めてほしいと足掻く主人公たちのほうが

私には近いのかもしれない。

この本を読んだ多くの人と同じように私も、

自分の死後<誰を愛し、誰に愛され、誰に感謝されたか>と

訊かれた私の知り合いはどう答えてくれるのかと想像してみた。

私には子供がいるからどうしても愛というと子供の出番になりそうだけど、

感謝となると…。

私は誰に感謝されている?

子供には健やかに生きていることに感謝しているけれど、

私の親がそれだけのことで私に感謝してるとはとても思えないし、

そもそも感謝すること自体、宗教を持たない私は誰にたいしてしているのかさえも定かじゃない。


でも、もっと小さな具体的な感謝、

ありがとうと言ったそれが感謝だとしたら、

<その人のためになら自分が少しくらい損をしてもいいって思えたらそれはもう、愛>だとしたら、

感謝や愛なんて結構溢れてるじゃん、と思える私は少しは幸せな人間なのかもしれない。