今年の2月、麻生圭子さんのことをこのブログに書いた。
「麻生圭子といえば京都」だったのに、いつのまにか去っていたという内容。
なぜなんだ、というソボクな疑問から書いた。
その彼女が、この4月から新たな連載エッセイを始めている。
朝日新聞滋賀版で、『麻生圭子の 湖畔くらし、始めました』と銘うって。
彼女の仕事は京都を去ったのち、一服状態だった。
新しい住まいの準備で、それどころじゃなかった。
それもようやくひと段落、本格復帰と相成ったようだ。
久々のエッセイは、プロローグと称して始まった。
自己紹介的に、東京から京都に越してきたいきさつ、町家暮らしのことや、ロンドンを経て滋賀への転居に至った経緯などが綴られている。
そして、京都を去った理由も明かされている。
活字メディアでは、初めてのことかもしれない。
その箇所を引用させてもらうと、
いけずの洗礼を受けながらも、それをエッセーのネタのできるほど、毎日が充実していました。楽しかった。余裕もありました。
なのに50歳を過ぎてからかなあ。閉塞感を覚えるようになったんです。大げさにいうと、人生が疲弊していくのを感じました。
原稿が書けなくなり、あんなに好きだった茶の湯の稽古にも行かなくなり、家で悶々、鬱々とする日々。
そんなとき転機がやってきました。
夫にロンドンでの仕事が舞い込んできました。
京都を離れられる。
京都を去った理由がいまひとつはっきりしないが、「年齢的にいけずに堪えられなくなった」ということなのだろうか。
それとも、単に加齢によるものなのか。
いずれにしても、「京都を離れられる」という言葉がすべてを物語っている。
あの麻生さんが、京都はもうたくさん、だと明言したのだ。
今年2月のブログで自分は、彼女が京都を去った理由を「分析」した。
本の売れ行きの結果が、その一端だったかもしれないと。
この拙論は当たらずとも、真実の一部とはなっているはず。
ただし実は、京都を去った当時の彼女のツイッターには、すでに上の引用と近い内容が書いてあった。
素直にそれをそのまま受けとめれば、京都を去った理由は明白だった。
分析もヘチマもなかったのだ。
でも自分としては、あんなにいっぱい京都愛を語ってきた麻生さんが、一転して京都をキライになるなんて、本人の言葉とは思えなかった。
何も事情を知らない者にとったら、突然の宗旨替え、転向、手のひら返しは、唐突以外の何物でもなかった。
信じられなかった。
だから自分は、本の売れ行きという他の理由を求めたかったのかもしれない。
ともあれ今回、真相が語られてよかった(?)と思う。
ただし、自分がブログをアップした二か月後にそれが明かされるとは、むろん予想はしなかったけれど。
さて活動を再開した彼女のエッセイ。
初回のコラムには、ご本人の写真が載っている。
そのお召し物は、これまでの和服から一変してシックな「洋装」。
京都の麻生圭子はもう終わった、というメッセージが伝わってくる。
過去を払拭、一新したい思いがあらわれている。
連載は、基本的に週一回。
毎回テーマを変えている。
家の近くの野草の話、岸辺の様子、地元の祭りのあれこれを綴るなど、まさにエッセイ=身辺雑記の一方で、近江米や鯖寿司など、滋賀の特産品をPRしているような回もある。
たとえば、琵琶湖の名の由来に始まり、カイツブリという鳥の話に転じて、「かいつぶり」という和菓子は土産にいいですよ、という話の最後には、こうあった。
郷土ではないけれど、住んだからには、その土地の広報部員でありたい。これは京都時代も、ロンドンにいたころも、思っていたことです。
つまり、いまは「滋賀広報部員」ということなのか。
ならば書き溜めたコラムを、いずれ京都本のようにまとめるのだろうか。
でも、滋賀県の本なんて売れるのだろうか。
麻生さんは、中断していたブログも久々更新している。
そこには、「京都ネタはよく文句を言われた」と、ある。
いけずな京都人が、あれこれ重箱の隅をつついてきたのだろう。
一方、滋賀県人からは言われたことはないという。
その気楽さのせいだろうか、コラムには京都の思い出話がよく出てくる。
京都時代はああだった、こうだった、と。
京都にコンプレックスをもつ一方、その裏返しとして憧れも併せもつ滋賀県人に、あえてそうしているのだろうか。
数えてみたらこれまでの17コラム中、12になんらかの京都に関する言及があった。
文体も京都時代そのままである。
麻生さんは、まだまだ京都を忘れられない。
この前、麻生さんがNHKのBSに出演していた。
「京都を愛した、谷崎潤一郎や白洲正子ら文人たち」という主旨の番組だった。
アーカイブというのだろうか、再放送がベースなのだが、新たにスタジオ収録が付け加えられていて、コメントしていたのが麻生さんだった。
谷崎や白洲は、京都の生まれではない。
麻生さんもそうである。
三人ともに京都を愛した他郷人ということになる。
京都時代の麻生さんの本では、谷崎や白洲の話が折々に挿話されている。
番組で印象的だったのは、京都を語るときの麻生さんがとても生き生きしていたこと。
白洲正子を語っていた静かな口調が、町家に話が及ぶと幾分高揚したように見受けられた。
書いても語っても、麻生さんはいまだ彼の地への思いがあふれ出してしまうようだ。
自分は前回のブログで、麻生さんが今の住まいを選んだ理由を、京都と適宜な距離感がある地だからと書いた。
長年培った人間関係など、京都のすべてを捨て去る踏ん切りはつかなかったのではないかと思ったからだ。
でもこの推測は誤っていた。
最近出た雑誌に、麻生さんの特集が載っていたのだが、
ロンドンからの帰国後は、「水のそば」をキーワードに日本中の地に新たな住まいを求めた、という。
テムズ川沿いの、水辺の暮らしが気に入ったかららしい。
そういえば、京都でも鴨川の流れを好んでいた。
新しい住処の候補地として、富士山麓や伊豆までも一度は考えたという。
はじめからびわ湖ありきではなかったのだ。
(もっとも朝日新聞の初回エッセイでは、「びわ湖以外考えなかった」と書いている。滋賀にヨイショしている麻生さんが微笑ましい)
麻生さんからすれば、住処は何処でもよかったようだ。
住みついたら、エッセイストとしてその地を「広報」する。
いまは淡海の国の広報部員を自認する。
京都のときも、そうだったのか。
いや、京都の場合、最初のきっかけである町家のことは、本当に好きだったように思える。
それを本に書いたら、売れた。
続編を次々と求められた。
でもやがてネタも尽きてしまった。
本人曰く、好きではない歴史も勉強してガンバって書いた。
それなのに、うるさい京都人があれやこれやと文句をいう。
最初のうちは気にしなかったが、しまいには疲れて果てた、ということなのか。
近頃、作詞家の松本隆氏が住まいを東京から京都へ移した。
当初の麻生さんと同じように、松本氏も「京都のいけずも創作のネタ」と肯定的にとらえている(2016年5月19日 京都新聞)。
ふたりは作詞家、さらに東京から京都へ転居したことなど共通点がある。
そしてともに、京都のいけずを創作材料と公言しているのがおもしろい。
でも麻生さん、最初は余裕で受けとめられたという、「京都のいけず」を本に書いていただろうか。
自分の読みようが浅いのか、そんな文章見たことないのだが。
地元ゆえあからさまにはできないから、オブラートに包んでいたのだろうか。
ならば、京都を去った今こそ、存分に書いてみるのも一興ではないだろうか。
たとえば、ベストセラーになった井上章一著『京都ぎらい』。
この本には、いけずな京都人の実態がリアルに描かれている。
類書がない、画期的な本だと思う。
その麻生圭子版なんて、どうだろう。
京都に住む前から麻生さんはエッセイストだったが、結構硬派な辛口の本を書いていた。
その筆致で京都から受けた数々の洗礼を明るみに出せば、みんなあっと驚くだろう。
『京都ぎらい』を上回る売れ行きになることは、間違いない。
いえ、冗談です。
せっかく二十年近くの歳月で培った「京都の麻生圭子」ブランドを、彼女が自ら捨て去るなんてありえない。
京都はもうたくさんと、新たな地で始めたエッセイにさえ、彼の地の思い出がぽろぽろとこぼれ落ちる。
NHKは、京都を去った理由を承知の上でもなお、京都を愛する識者として麻生圭子を選んだ。
本人の意識はむろんのこと、世間の認知もこれから先変わることはないだろう。
女性の歳を書くのは気がひけるけれど、彼女は今年「暦が還った」。
またあらためてスタートラインに立ったといえるのかも。
作詞家、京都町家暮らしと変遷してきた彼女の人生は、それらの過去を大切に胸に抱きつつ、「麻生圭子3.0」に入るのだろうか。
でもその行き先は、まだご本人にもわからないように思える。