井上章一 著 『京都ぎらい』
この本については、すでにあちこちでいっぱい語られている。
アマゾンのレビューも溢れかえっている。
その感想なんていまさらである。
自分も一度ブログに書いている。
いや、正確には書いたとはいえない。
『京都ぎらい』をテーマとした雑誌の鼎談から、その一部を引用、解説的な図を載せただけ。
でもきょうは、ちょっと詳しく述べてみたい。
最近、その井上氏の講演を聴きに行った。
新著である『学問をしばるもの』の、販促的なものだった。
本でさえあんなにおもしろかった井上氏のこと。
活字に出来ない話もいっぱいあるに違いない。
「ここだけやで」と、声をひそめた内緒話を期待した。
でもいくつかはその類いが聴けたものの、『京都ぎらい』のほうが断然おもしろかった。
講演の帰り際、会場で新著を買った。
この本には、氏が趣味で弾いているという、自演のピアノ曲CDがおまけとなって付いていた。
上手いと自負するゆえだろう。
でも素人の演奏を押しつけられても・・・
いまだ聴いていない。
さて、売れに売れ、新書大賞も受賞したという『京都ぎらい』。
この本の白眉は何といっても、いけずな京都人の典型を実名で俎上にあげたことだと思う。
その名は、仏文学者杉本秀太郎氏と文化人類学者梅棹忠夫氏。
匿名にしていたらインパクトはなかったはずだ。
なにしろご両名は、いま記した簡単な肩書でおさめることができない大学者。
『京都ぎらい』がベスト・セラーになったのは、このおふたりのおかげといっていいかもしれない。
井上氏はこれまでも多くの本を著している。
『日本に古代はあったのか』『つくられた桂離宮神話』などなど。
氏はこれらのなかでも持論を展開し、先達の学者の名を出し論法鋭く批判している。
同様に『京都ぎらい』でも実名を出したことになる。
だから問題ないと言えるのか。
ちがうと思う。
『京都ぎらい』では、過去の個人的なたわいもない会話を題材にしているのだ。
日常的な会話での言葉を蒸しかえし、京都中華思想の典型としているのだ。
学問上のはなしではない。
おまけに杉本氏と梅棹氏はともにすでに故人。
抗議もできない
草葉の陰で泣いておられるかもしれない。
そこで、思った。
おふたりもまた、多くの著作を遺している。
それらのなかに、井上氏に言い放ったことばに類する文が、あるいは綴られているかもしれない。
井上氏の出身地である嵯峨を蔑むような言説がおふたりの書にあるかもしれない。
ならば、それは公的に発言したと同じことになる。
私的会話を公にした井上氏は「免責」されるのではと考えた。
おせっかいは承知の上。
探してみるのも一興と思った。
しかし両学者の本のような高尚な本は、一冊も持ち合わせていない。
図書館で幾冊も借りてきた。
さてまずは、杉本秀太郎氏である。
氏は『京都ぎらい』によると、嵯峨出身の若き日の井上氏に、次のような言葉を投げつけた。
「昔、あのあたりにいるお百姓さんが、うちへよう肥をくみにきてくれたんや」
本書の、ハイライトシーンである。
井上氏は田舎者と揶揄されたのである。
図書館から借りだした杉本氏の本には、『洛中生息』『洛中通信』など、京都に関する随筆集が何点もあった。
洛中と冠された、それらの本。
杉本氏の洛中人としてのプライドが窺える。
二百余年伝来の旧家に生まれ育った著者。
それらは、京都愛の本であった。
京都市内を散策しながら綴る細かな描写には、井上氏が名人芸とも認めるだけあって、自分にもやはり感じるところがあった。
だが杉本氏は、単に礼賛するだけではなかった。
変わりゆく古都のありさまを嘆いてもいた。
とくに『神遊び』という本におさめられた、『祇園祭の現状』という一文が興味深い。
祭を執り行う、いわゆる町衆を痛烈に批判していた。
「鉾」にも「山」にも、新調の染織品があちらこちら目につく。そのどれひとつとしてそれで納得している鉾町あるいは山町の人たちの気が知れない。となりの人のうわさを聞くと、あれはしかじかの会社が寄付した胴掛だという。寄付されたら仕方なしにそれを用いなくては義理が果たせないことになっているらしい。
かつての「山鉾」の飾り、今も眼底に彷彿とするその飾りのなかには、あきらかに、あざやかに、美的判断が感じられた。気に入らぬものは断じて使わないという判断だ。ほかの部分との調和あるいは計算された大胆な破調が、互いに部分を引き立て合って、ひとつの「鉾」の全体は、それとしてきちんとしたまとまりを示していた。いや、もっとそれ以上のことがあった。「鉾」同士のあいだ、「山」 同士のあいだ、複数の「鉾」と複数の「山」とのあいだにも、おなじ配慮が働いていて、「山鉾」の全体には、りっぱにひとつの生き物という風格があり、そのなかで互いに他を引き立て合うことで 「山鉾」は美を競っていたではないか。
洛中人の誇りとする祇園祭。
杉本氏はその「身内」を批判していた。
鉾町や山町の人々へ、杉本氏は苦言を呈していたのだ。
自分は嵯峨など洛外の地を揶揄する記述を求めていたのに、杉本氏は洛中の仲間うちを批判していたのだ。
言い忘れたが、杉本氏は京都市下京区で生まれ、生涯を送った。
生家は歴史ある商家である。
「杉本家」の名で重要文化財に指定されていて、祇園祭では伯牙山のお飾り場となる。
氏自身も、祇園祭山鉾連合会副理事長、伯牙山保存会理事長なども務めていた。
いわば、祭りの中心人物のひとりである。
ほかの鉾や山に、一家言があっても不思議ではない立場なのだが。
ここですこしだけ、ブログ筆者の、個人的な話をさせていただきたい。
じつは自分は、サラリーマンだった現役時代、祇園祭の町内である中京区の会社に勤めていた。
この町内も、とある山を有している。
祭りの時季になると、社長が毎年その準備に勤しんでいた。
しかしその自宅は京都市内ではあるものの、北区にあった。
杉本氏の住む下京区からみれば、はるか洛外の地となる。
山にはその名を冠した保存会がある。
自分の勤める会社の二件ほど隣の会社の社長が、その理事長をつとめている。
しかしその住まいは滋賀県の大津だ。
大津は洛外どころか、逢坂の関を越えた、畿内ですらない地である。
つまり会社自体は洛中にあるが、町衆であるべき人々はよそ者ばかり。
現代において町衆の実体というのは、その多くがじつは洛外や畿外からの「通勤者」なのだ。
杉本氏はその素性を、苦々しく思っていたのではないか。
下京区に生まれ育った杉本氏からすれば、これら祭りの担い手は、蔑視の対象だったのか。
その意識ゆえの、上の一文だったのではないだろうか。
光洋商事
閑話休題。
話を元にもどす。
杉本氏のほかの本には、意外な記述があった。
氏は、井上氏の出身地である嵯峨に関して、その地への好意的な思いを綴っていた。
『ひっつき虫』と題する随筆集である。
『烏瓜』と題された一文の、冒頭から途中までを引用させていただく。
杉本氏の下京の家に、嵯峨の人が自分で採った烏瓜を持ち、訪ねてきてくれたときの描写である。
嵯峨に住む一婦人が秋ごとにからすうりを届けてくれる。裏山の雑木に高く這いのぼった長い蔓が木枯らしに吹き払われ、ぶらりと垂れかかるのを待って、蔓のちぎれるまでたぐり寄せる。
― 赤く熟した実が三つ、四つ、五つ、つらなる蔓を腕に巻きとる気分は格別ですよ。
少々いかつい顔立ちの、化粧気のないその人の話を聞くと、山姥の姿がまぶたに浮かんでくる。 腰の笊いっぱいに柿をもぎ取り、あけびの実をふところにねじ込み、袂を落栗にふくらませ、頭髪にへばりついた野ぶどうの葉を払いもせず、からすうりの蔓を腕にも髮にも首にも巻きつけ、素足で山を下りてくる山姥。 日本の秋がこのようにして人の身を飾り、人の身をやしなっていた遠い世が、プリミティブなものへの郷愁をさそう。
また、からすうりは、わたしを遠い幼少年時代の追憶にさそうこともする。 小学生のわたしが祖母に連れられての行く先はお寺ときまっていたが、母に連れられては京都近郊の野山に小半日の遠出をすることが多かった。とはいっても、祖母にくらべれば母には自由な時間がずっと乏しかったから、母と野歩き、野遊びをともにした思い出は、かぞえるほどしかない。その代わりに、どれもがいまも記憶に刻まれていて、思い出すたびになつかしさがこみ上げる。(以下略)
長くなるので途中で切らせてもらったが、このトーンは話の最後まで続いている。
どうだろう。
若き井上氏へ、蔑視のことばを投げつけた人とは思えない、嵯峨の地への郷愁あふれる一文だと思うのだが。
とらえようによっては、烏瓜を売りに来た婦人の容姿表現や山姥という表現などに、蔑視感があるといえなくもないし、あるいは日本人なら誰しもが抱く、里山への単なる憧れにすぎないのかもしれない。
だが杉本氏が嵯峨を、好意的にとらえていることもまちがいないはず。
祭の町衆への痛烈な批判の一方で、嵯峨への愛惜の情が綴られていたことは、『京都ぎらい』での杉本氏とは異なる、別の側面に触れた感があった。
さて、次は梅棹忠夫氏である。
まずは『京都ぎらい』に記された、梅棹氏の言葉を紹介する。
杉本秀太郎氏から受けた侮蔑の言葉を、井上氏が梅棹氏に問うシーンである。
「先生も、嵯峨あたりのことは、田舎やと見下したはりましたか」
あまりためらいもせず、西陣で生まれそだった梅棹氏は、こう答えてくれた。
「そら、そうや。あの辺は言葉づかいがおかしかった。僕らが中学生ぐらいの時には、まねをしてよう笑いおうたもんや。じかにからこうたりもしたな。杉本秀太郎がそんなふうに言うのも、そら、しゃあないで」
杉本氏の言葉は、ややオブラートに包んだものであったが、この梅棹氏のは、直球そのものである。
そして以下に紹介する、図書館の本にあった梅棹氏の言説は、さらに過激なものだった。
氏は、筋金入りの洛中至上主義者だった。
京都を語る一連の著書には、ストレートなその中華思想があちらこちらに噴出していた。
『梅棹忠夫の京都案内』という著書の一節である。
京都市内でも、旧市内とその周辺部とでは、かなりことばがちがう。これまでわたしがのべてきたのは、旧市内のことばである。比較的ていねいないいかたをするのだが、おなじ京都盆地でも近郊農村はずっとあらい。語彙もちがうし、もっとぞんざいないいかたをする。
そういった意味から旧市内というのは、言語島である。旧京都市内をとりかこむ農村は、むしろ近江や南山城のことばにちかいいなかことばがはなされている。そのなかで、ポツンと旧市内だけが、独特の言語の発達をみせている。わたしはいま北白川というところにすんでいる。いまでこそ住宅街になっているが、かつては農村であった。いまでも土着の人たちのことばは農村ことばであって、京ことばとはちがう点がある。
それでは上京と下京からなる旧市内のなかでは、おなじ京都語がはなされているかというと、そうではない。せまい旧市内のなかでも、さらに上と下で多少の差がある。われわれがきいたら、これは上のひとか下のひとかすぐにわかる。ましてたとえば伏見区のひとのことばは、もっとちが っている。京都では話をすれば,どのへんの出身かおたがいにすぐにわかってしまう。
『京都ぎらい』での、梅棹氏が井上氏を揶揄した言葉が、かたちを変えてそのまま語られている。
どうやら梅棹氏は、京ことばの地域差を一言で簡潔に、そしてやや下品に、井上氏に言い放っていた。
ただし『京都ぎらい』では、上京出身の梅棹氏は、井上氏の中京区の友人から、逆に差別されてもいる。
国立民族学博物館の館長をつとめていた梅棹氏は、自ら「京都市の方言録音展示」を吹き込んでいるのだが、これは氏が洛中人を代表していることを意味する。
これを井上氏の友人が咎めた。
「京都を西陣のやつが代表しとるんか。西陣ふぜいのくせに、えらい生意気なんやな」と梅棹氏は批難されている。
何ともプライドの壮絶な闘いである。
しかし上にあるように、梅棹氏は旧市内のことばの差異が明確にわかると、自負している。
ならば氏が出生地である上京のことばを、洛中の核心地である下京のそれに矯正するのは、容易いと思われる。
梅棹氏はおそらく録音を、下京のことばで正確におこなったはずだ。
それでも中京区の人にとっては、それも西陣者の単なる猿真似にすぎないことになる。
さて、これら杉本氏や梅棹氏の中華思想は、『京都ぎらい』の第一章に書かれている。
そしてネット上の書評を眺めていると、読者に与えたインパクトも、やはり第一章に集中している。
二章以降の、京の仏教や歴史にまつわる話には、反応がそれほどないように感じる。
しかし自分としては、この本の真骨頂はむしろ二章以降にあるのだと思う。
ほかの多くの京都関連本ではお目にかかれなかった、いわばタブーに井上氏は果敢に斬り込んでいると感じる。
たとえば、僧侶たちの花街での出没エピソードに始まり、寺院が出版社から撮影料を徴収する話、僧侶の家の令嬢がキリスト教系学校へ入るとか、荒行で知られる千日回峰は、延暦寺内では実はそれほど評価されていないとの話は、とても興味深いし、
あるいは禅寺の石庭は武将宿泊勧誘がルーツであって、禅の奥義とは関係がないという考察などなど、ユニークな視点も挙げてゆけばキリがない。
これらのほとんどは、いままであまり活字になってこなかったのでは。
なかでもやはり驚いたのは、花街で僧侶が遊んでいる話。
噂では知っていた。
しかし、それを井上氏は本にした。
少なくとも、僧服姿のままで遊ぶことなぞ、誰も書かなかったのではないか。
花街にはそれほど足を運ばないという氏が目撃しているくらいだから、日常茶飯なのだろう。
芸子の証言では僧服姿かどうかに関係なく、どの宗派の僧侶もよく遊ぶという。
おそらく京都人はみな知ってることなのだろう。
そして『京都ぎらい』は、花街で遊ぶ僧侶の寺を実名で挙げてもいる。
嵯峨を蔑視した大学者の名を記したぐらいだから、不思議なことではない。
しかしその名が「三井寺」だったことは、意外だった。
なぜなら三井寺は、京都の寺ではないから。
京都の隣の、滋賀県大津市の寺である。
しかし文中に、滋賀の寺であるとの断りはない。
さも京都の寺であるように書かれてある。
三井寺を滋賀の寺と知っている人は、そう多くないかもしれない。
とくに関西以外の人なら、この寺を京都の寺と思い込むだろう。
井上氏は、三井寺の僧侶が祇園などで遊んでいることを、当の本人から聞いたという。
すっかりさびれた室町や西陣の旦那衆、あるいは太秦の映画人に代わり、金にものをいわせて夜な夜な花街にくり出しているというのだ。
たしかに三井寺は、由緒あるそれ相当の大寺である。
しかし、参拝客はいつもまばらである。
平日でも押すな押すなの大盛況である京都の観光寺院とは異なり、滋賀の三井寺は休日でも閑散としている。
桜と紅葉の時期だけ、にぎわう程度である。
圧倒的に拝観料収入が多いのは、京都の寺である。
京の僧侶のほうがさらなる豪遊をしているだろうから、例に挙げるのであればそちらのほうが適当だと思うのだが。
滋賀こと、近江の国はむろん洛中ではない。
逢坂の関を越えた、畿内ですらない地である。
なぜ『京都ぎらい』という京都が主題の本に、滋賀の寺をさもその地の寺のごとく記したのか。
さしたる理由はないかもしれない。
おそらくは、たまたま三井寺の僧侶がポロリと洩らしただけなんだろう。
京都の僧侶は、こんな不用意なことは喋らないだろう。
そして、おそらく井上氏は、京都と滋賀の寺を区分けしていない。
だから、坊主がいい題材を話してくれたと、思わず書いてしまったのだろう。
きっと無意識のうちに。
しかし、もし梅棹忠夫氏がご存命なら、どう思われただろうか。
京都市内であっても、嵯峨への差別意識をあらわにされる梅棹氏。
京都と滋賀を一緒にするなど、何事だというだろう。
ましてやことは京の文化の根幹をなす、仏教に関わる話。
たとえそれが僧侶の不名誉な話であっても、京都の寺の話題に滋賀の寺をそっと混じらせて、いわば同列に扱うなぞ、梅棹氏が許すはずがない。
なぜなら梅棹氏は、京都と滋賀を厳格に峻別していたのだから。
自分がそこまで言い切る「論拠」は、梅棹氏の著書に示されている。
最後にそれを引用させていただく。
話があらぬ方向に転がってしまった。
でも、『京都ぎらい』を気に入った方なら、楽しんでいただけたかもしれない。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
1980年、京都新聞社で開催された「京都新聞創刊100周年記念シンポジウム」で、梅棹忠夫氏は「京滋の原始社会を語る」というテーマで講演をおこなった。その講演録が、梅棹忠夫著『京都の精神』に収録されている。以下はその一部を抜粋したもの。
本日の会の主催者の京都新聞社にはもうしわけないのですが、「京滋文化」とはなにごとぞ。京都文化ならわかりますが、京滋文化とはなにごとだ。京都と滋賀をならべるのがおかしい。
なるほど、近江にはふるいものがいろいろあります。しかし、「京滋文化」というようないいかたはやはりおかしいのではないか。さきほどの上山先生のお話にもかかわらず、やはりこういういいかたはよくないんだとおもいます。歴史はともかくとして、京都が日本の文化的センターであればこそ、みんなついてくるわけなんです。京滋文化というようなことをいって、全国、九州や関東のひとがついてきますか。これではだめなんです。主催者のつごうで、こういっておられますが、問題は京都の文化でございます。 京都新聞社のほうでもよくおわかりだとおもいます。
その証拠に、『京都新聞』を『京滋新聞』とは改名なさらない。いつまでも京都新聞をとおされるのだとおもいます。京滋新聞と改名してもらっては、やはりこまるんです。べつに滋賀県の悪口をいうつもりはありません。わたしの先祖も滋賀県の出身でございますから、わるくいうつもりはございませんけれど、やはりそのことははっきりしておく必要がある。「京滋文化」というぬえのごときものは存在するわけはないんだ、ということです。
了



