NHK
井上陽水 ドキュメント『氷の世界』40年
日本初ミリオンセラーアルバムの衝撃とその時代
NHKは以前、1970年代のフォークやロックの名盤誕生秘話番組をよく放送していました。自分が若い頃に聴いていたアルバムを取り上げてくれ、さすがNHKと思ったものです。
この『氷の世界』も当時の作品です。あの頃、井上陽水という人の歌にはどこか惹かれる部分があり、その美しいメロディは、フォーク界でも群を抜いた存在でした。
それから四十年。当番組により、陽水の歌に秘められていた背景やエピソードを知り、奥深さにもおおいに感じ入りました。出演した谷村新司らの音楽仲間、あるいは伊集院静など識者の深い洞察にも脱帽です。このような貴重な証言は、映像だけではもったいない。勝手ながら以下に、文字起こしをしてみました。よろしければ、ご一読ください。
1973年12月1日。『氷の世界』発売の熱気を、福岡のラジオ番組プロデューサーだった野見山實は目撃した。繁華街のレコード店。.寒く深々とした早朝に関わらず、店の前に百名の客が並んでいたのだ。そして殺気立っていた。積み重ねられた段ボールからレコードが手渡される。お金も段ボールに入れられる。レコードがこんな人だかりで売れている。驚きと感動で胸が震えた。陽水がアマチュア時代、せこせこ録音録ってたときが走馬灯のごとく浮かんだ。そして感動した。どうしてここまで来たんだろうと。時は四年前にさかのぼる。
アンドレ・カンドレ デビュー
1969年、浪人生だった井上陽水は、福岡のラジオ局RKBのプロデューサー野見山を訪れ、自作自演の曲を持ち込む。それがきっかけでアンドレ・カンドレの名でデビュー、シングル『カンドレ・マンドレ』を発売した。
当時名古屋のラジオ番組でプロデューサーをしていた塩瀬修充は、アンドレ・カンドレをゲストに呼ぶ。レコード会社から届けられたテスト盤の中に、アンドレ・カンドレという歌手の、『カンドレ・マンドレ』という妙なレコードがあり、その伸びやかな面白い声に魅かれたのだ。電話をすると、出演交渉されたのは初めてだと、とても驚いていた。当日、モジャモジャのアフロヘア―の頭で、サングラスをかけた、なりが汚い大男が現れた。その男がのちの井上陽水だった。
しかし三枚出したシングルはまったく売れず、スケジュールもがらがら。小さなライブハウスでときどき演奏するぐらいだった。
川瀬泰雄は担当マネージャーだった。渋谷にあった小さなライブハウスの『青い森』『ジャンジャン』を掛け持ちしても、せいぜい一日三千円ぐらい。髪の毛長い汚いのを全部お前引き受けろよ、という雰囲気になり、川瀬は運命共同体だと腹をくくる。
それでもレコードは売れなかった。
井上陽水 もう、アンドレ・カンドレっていうのも。飽きてきていましたからね。一番極端なのはラジオ番組に行くと、『カンドレさんはどちらにいらっしゃるんですか?』なんて笑い話もあったりしたんで、このギャグも飽きてきた、面倒くさいなと。
1971年、レコード会社を移籍。プロデューサー多賀英典と出会う。そして井上陽水に改名。1972年、初のアルバム『断絶』をリリースした。
Q(番組側の質問) 多賀さんは、まずアルバムを作ろうとした?
陽水 うーん、いろんなお話があって、この曲いろいろ気になるけど、シングル盤って訳ではないだろうと。それで、多賀さんが、じゃあアルバム作ろうかって思ってくれたのかもしれない。なにかシングル盤になるいい曲ないかねぇなんて、よく言われてましたからね。それで『傘がない』ができた。
『傘がない』『人生が二度あれば』。名曲が入ったファーストアルバム『断絶』も、上層部の判断により初回販売枚数はわずか数千枚だった。
しかしアルバム『断絶』は、名古屋でブレイクする。きっかけはラジオの深夜番組。当時人気ディスクジョッキーだった森本レオが、陽水をゲストに迎え、アルバム全曲をかけたからだ。
森本レオ レコードを売るやつ、何て言うんですか? 販促って言うんですか、陽水が『名古屋まで行きます』って言うんで、会ったら陽水が「全然売れてない。ボツになったら自分も居場所がない。すごいつらい」っていう話を聞いて。それで生で4~5曲歌ってもらって、レコードを全部紹介して、そしたら名古屋のヤマハ本店で『断絶』が70枚売れて、大騒ぎになって、すぐ2枚目が決まりました、って電話が入って、『今から頑張って作ります!』って話になって、よかったねぇって、もしかしたらジョッキーやってたのは、井上陽水を世に出すためにやってたのかもしれない、みたいな・・・
その年(1972年)、セカンドアルバム『陽水Ⅱセンチメンタル』発売。センチメンタルは曲名ではなく、トータルイメージを表した言葉。いわゆるコンセプトアルバムだった。
多賀英典 センチメンタルっていうのは、恥ずかしいタイトルなんだけれど、まぁいいじゃないか、人間なんて基本的には女々しくてという話で、これは僕が付けたんだけれど、その頃から僕の中で”勝とう”という意識というか、絶対注目を集めてみせる意識が生まれて、『センチメンタル』から、『氷の世界』まで多少の時間がある・・・
Q ちょうど1年ぐらい?
陽水 多賀さんの言葉で印象的なのは「勝とう」って言葉でね。『センチメンタル』って言葉は多賀さんが付けたってのは、その通りなんだけれど、いいじゃないか女々しくったって、そこら辺の気持ちと、勝ってやる、って気持ちが、対極として多賀さんのパーソナリティが表れていると思って、非常にわかりやすいですよね。勝ってやるって感じがね。そのエネルギーってのは、僕はよくわかってないだけで、すごく影響したと思うよ。
地道にアルバムセールスを伸ばした結果、シングル『夢の中へ』(1973年 6thシングル)が20万枚近い大ヒット。
そして73年6月いよいよアルバム『氷の世界』のレコーディングが始まる。初のミリオンセラーアルバム『氷の世界』はいつどのように誕生したのか?
その謎を解く手掛かりが、レコード会社の倉庫で発見された。16トラックのマルチテープ(録音原盤)。幅5cmのテープに、楽器の音や陽水の生のボーカル、16種類の別の音声が保存されている。貴重な録音原盤なのだ。レコード会社から特別にマルチをお借りした。
井上陽水と当時の録音スタッフが集合。アレンジャー星勝と、ギタリスト安田裕美に、マネージャーの川瀬泰雄(ロンドンには行かず国内録音のみを担当)は録音ディレクターも兼ねていた。
アレンジャー 星勝 (氷の世界13曲全てを編曲)
ギタリスト 安田裕美 (国内レコーディング全曲を担当)
マネージャー 川瀬泰雄 (ロンドンには行かず国内録音のみを担当)
シングルはどう決まったのか
レコーディングはシングル用の曲から始まった。
『心もよう』と『帰れない二人』。まだどちらがA面か決まっていない。
陽水 A面B面(どちらにしようか)あったね。
川瀬 同時に録った『帰れない二人』がすごい出来が良かったし、いい曲だったんですよね。
安田 コード進行がきれいだし、いわゆる洋楽って感じですよね。
川瀬 言ってみれば、『心もよう』のほうが歌謡曲に近いイメージがあったんで、だからミュージシャンとか、サウンド側の人は『帰れない二人』のほうが好きなんです。
陽水 『帰れない二人』は、忌野清志郎と中野の僕の部屋で作ったんだけどさ。ニール・ヤングの、リズムは違うけれど、あれからインスパイアされてね。
川瀬 あの頃、よくニール・ヤング聴いてたもんね。
陽水 ニール・ヤング流行りでね。清志郎とふたりで、あっという間に出来た。
川瀬 どっちがどこをどう作ったってことじゃないの?一緒に作ってたの?
陽水 なんか・・・部分部分で。
星勝 歌詞はあと?同時?
陽水 きっかけは僕だったと思うけどね。よく覚えてないんですけど・・・
陽水と清志郎のふたりは、この曲をどう作ったのか。
高級オーディオ店の試聴ルーム。
この三人も『帰れない二人』がどう作られたか、勝手に推理。
みうら これは陽水さんのコード進行なのか、清志郎さんのコード進行なのか?
リリー 「思ったよりも~」の、この口の動き方は、陽水さんっぽいよね。
山口 Gdim(ディミニッシュ=不安な響きを奏でる和音)は清志郎さんじゃないかと思う。
みうら 清志郎さんだね。二行ずつ作ってんじゃないの?
山口 前半と後半とか。
陽水 これはほんとに、一行ずつ作ったような気がする。詞と曲をね。そこはこっちの方がいいんじゃないのとか。一行ずつかなぁ・・・
本題に戻り、どちらをA面にするか?
現場のスタッフが推したのは『帰れない二人』。しかし多賀はひとり『心もよう』にこだわった。
陽水 僕ら若い者が『帰れない二人』がいいってまとまっていたんだけれど、多賀さんは日本のマーケットってのはそういうものではないんじゃない。やはり『心もよう』のほうが、多くの人が情緒を揺さぶられるはずだっていう風に判断したと思うんだよね。
『心もよう』を聴きながら~
川瀬 スティービー・ワンダーの『スーパーステイション』が流行った後なんだな。
星勝 エレキチェンバルは使いたかった。とくにイントロですよね。イントロを衝撃的な形で出たい。それに最後に出てくるメロトロンの ♪タララ~で、キャッチさが倍増するということで、この形になった経緯を覚えています。
みうら これはもう他の曲が弾けなくても、最初のコード(AmからDm、G7、C、E7、Am)が誰でも弾けることが、ヒットした原因だと僕は思うですが、どうでしょうか。
山口 そうですよね。しかもメロディとリズムが起伏が激しい。さびに来るとこんなに日本的というか・・・
陽水 この歌は最初タイトルが『普通郵便』だった。当時、遠くに行きたいとか(旅行に行きたい)、そういう風潮だったから。
陽水は『普通郵便』を『心もよう』のメロディで歌う。
遠くの街の駅で
降りて空を見ると
線路の脇に草がある
草のにおいで旅を知る
僕らが旅へ
出てゆくわけは・・・
陽水 しかしこれがボツになり、歌詞を変えて、『心もよう』というタイトルは多賀さんが付けた。
川瀬 心に「もよう」をくっつけたのなんて初めてだった。だから不思議なタイトル、でもなんとなくわかるし、いいなぁってのがあったよね。
陽水自筆の作詞ノート
書き直した歌詞もさらに多賀に書き直された

元の歌詞
レモンティーを買いに行くほかは ほとんど毎日家に居ます
書き直された正式な歌詞
19才になったお祝いに 作った歌詞も忘れたのに
サウンド、タイトル、歌詞にこだわり、多賀は周囲の反対を押し切って、『心もよう』をA面にした。その心境を多賀は語る。
多賀 『帰れない二人』をみんな、星勝、川瀬も安田も推して、これがいいって。俺だけ孤立するわけだよね。みんなに不貞腐れられちゃってね。特に陽水が。お互い気分悪くて1週間ぐらい全然口もきいてくれない。もう制作をやめたい、ディレクターとして陽水と対峙することはやめたいなぁと思っていた。ただ結果的に『心もよう』で売れたんだけれどね。
録音された多賀の言葉を聞く陽水
録音を聞き終えた陽水
陽水 そんなに孤独感とか、対立していたことを、(多賀さんは)そこまで重く受け止めていたのかぁと、今の話を聞いて驚いた。ものぐさの僕としては面倒くさい、書き換えるという作業が。嫌だなぁって顔はずいぶんしていたかもしれない。
『心もよう』はシングルとして大ヒット。
アルバム『氷の世界』としての起爆剤となった。
『帰れない二人』VS.『心もよう』
どちらが良かったか、当時聴いた人たちの判定は?
伊集院 あの時代に、きちんと耳に入ったという意味では、『心もよう』でしょう。夜中に定食屋か何かで流れていた時に、孤独なことと、色彩的なことがすごくいいなと思った。そこに23歳の私がいたことの確証みたいなもの(を感じた)。
小室 『心もよう』は伴奏が何にもなくて歌ってみればわかるんですけれど、「さみしさのつれづれに手紙をしたためています あなたに黒いインクがきれいでしょう 青いびんせんが悲しいでしょう」っていうのを、ミュージシャンがいいって言うわけがないでしょう、絶対に。『帰れない二人』があることが、この『氷の世界』を成立させている。この四行は秀逸だよね。「『僕は君を』と言いかけた時、街の灯りが消えました」。町の灯がふわーっと消えるんだよ。いままで町の灯で見えなかった星が見えたら、えっ帰っちゃうの星、「もう星は帰ろうとしている 帰れない二人を残して」は、なかなか出てこないよね。
谷村は当時、ラジオのパーソナリティとして活躍していた。
谷村 やっぱり多賀さんが『心もよう』って言ったのは、僕は大正解だと思いますし、死ぬほど(レコードを)かけましたからラジオで。『帰れない二人』のほうが、クオリティは高いですけど、そういうのを超えて、この時代の扉を開く一曲を選べと言われたら、僕は『心もよう』を選んだと思います。『帰れない二人』は、隠れた名曲として、アルバムの中に、別の輝きをもつ存在となるのがいいと。
今回NHKホームページで、アルバム『氷の世界』13曲から、リクエストを募集。
『あかずの踏切り』が第6位となった。
みうら、リリーフランキー、山口の三人が『あかずの踏切り』を、勝手に解説
山口 音的にはめっちゃファンキーですよね。
みうら それが星勝さんのアレンジで・・・
山口 じゃあ、陽水さんよりも・・・
みうら 陽水さんと(星さんが)合体したと思うんだけど。
じつは『あかずの踏切り』の作曲者は、アレンジャーは星勝だった。
そして1973年の3rdアルバム『もどり道』には、陽水作曲の『あかずの踏切り』が収録されている。
自分が作曲した『もどり道』収録の『あかずの踏切り』を、苦笑いしながら聴く陽水
みうら そうかぁ、同じ曲だったのか。全然違う。これは陽水さん作曲で、さっきのやつが星勝さんだったんだ。
リリー 陽水さん作曲のは、本当に(踏み切りが)開かなさそう・・・
みうら (曲調が暗すぎて)もう死にたくなりますよね・・・
陽水 (自分の作曲した『あかずの踏切り』は)曲として不満だったのかもしれない。そんなに悪くない詞なのになぁって、思ってて。それで、もうちょっとこの詞にいいメロディってないのかぁって思って、星君に(再作曲を)依頼した気がする・・・
そして星は『あかずの踏切り』を、まったく違う曲に作りかえた。
安田 (星勝版『あかずの踏切り』は)カッコいいですよね、めちゃくちゃ
陽水 いやいや、いろいろ後悔するがたくさん。メロディをよくわかってないまま歌ってるからね(笑)
川瀬 難しい曲、難解なんだよね。
よくわからないまま歌った『あかずの踏切り』がアルバム一曲目を飾る曲となった。
みうら いろいろこのアルバムは実験がしてある。いままで作った歌を、違う人に作曲させている。
山口 それを一曲目にするってことじゃないですか。結構抵抗ある、ミュージシャンとしては。
人類学者 中沢新一 最初の『あかずの踏切り』がすごく新鮮。僕は向こうへ行きたいんだけど渡れないでずっと待っている。到着点を示すのがメッセージソングという70年代に、待機している状態を歌っている音楽が新鮮だった。当時の関西フォークにしても、メッセージっていうものが多かった。歌詞そのものが到着点がわかっているような曲が多かった。陽水さんはそういうところへ行かない。待機している状態を歌う。1973年というとオイルショックじゃないですか。上がっていったのがガタンとするんですよ。つまり目的に向かって突っ走っていたのが挫折したときに、陽水さんのこの考え方、すごい大きい意味を持つ。
井上陽水『氷の世界』(2/3) ~NHKドキュメンタリ再現~ へ続く

















































