吉田拓郎語録(1/3) から続く
『おきざりにした悲しみは』
この曲の印象的なイントロ・フレーズは、レコーディングのとき、高中正義がその場でアドリブで作ってくれた。とても素晴らしいと思った。『結婚しようよ』『旅の宿』と、軽いフォークなサウンドの曲が続いたので、それらに飽きていた。それでこのロックな曲を作ったが、シングル盤にするにはすこし重くないかと、周囲のスタッフは反対した。しかしCBSソニーの洋楽担当の連中は、日本の音楽でようやくこういう音が出るようになったと、感心してくれた。それで押し切った。
CBSソニーから出たこの歌も悪くはないが、そのシングルB面『花酔曲』のほうが、はるかに出来がいいのではないか。自分としては、作家・吉田拓郎の傑作とまで思う。一方、古巣のエレックから出た『オンステージ第二集』には、『静』という曲が収録されている。拓郎ファンなら衆知のように、この歌は『花酔曲』と同一曲である。同アルバムは本人の大反対を押し切り、エレックが発売を強行したものだった。そして『おきざりにした悲しみは』と『オンステージ第二集』は、1972年12月の、わずか4日違いで発売されている。
以上の状況から勝手に推察するのだが、エレックのアルバム発売の動きを知った拓郎サイドはあせった。リメイクがばれてしまう『花酔曲』を、やむなくB面に差し替えたのではないか。『花酔曲』のほうが『おきざりにした悲しみ』より一般受けし、ヒットするのはあきらかだから、CBSソニーの営業としては苦渋の選択だったはずだ。『花酔曲』は『結婚しようよ』と同系のものだが、B面にまわった事情には、じつはこのような背景もあったのかもしれない。
それにしても下に掲げた、『おきざりにした悲しみ』のジャケットの絵?写真?はわけがわからない。ふざけすぎてる。拓郎はじめスタッフは何を考えていたのだろう。A面選定の混乱が、なぜかデザインにまで及んでしまったのだろうか。シンガーとしての矜持はアルバムなのであって、シングルなんてどうでもいいという、拓郎の一種の意思表示だったのだろうか。人気に火が付いた直後の、おごりのあらわれだったのだろうか。
B面『花酔曲』の原曲? 『静』
吉田佳代
うちの佳代は料理をうまく作れないと、機嫌が悪くなる。むかし加藤和彦が家に遊びにきたとき、結婚前だったが、佳代がご飯を作りに来てくれた。そして鳥のももを焼いてくれたのだが、加藤が「拓郎、鳥ってこんなに赤いか?」と不審がった。あまり焼けてなかったのだ。うちのヤツはこういうことがあると、とたんに機嫌が悪くなる。ふくれる。うちの人はとても欠点が多い。それが直らない。とくにすぐ怒る。短気。かんしゃくもち。家内のお母さんもかんしゃくもちだった。だから三人で逗子に住んでいた7年間、この親子喧嘩がはじまると、俺は二階に逃げた。仲裁に入ろうにも怖くて怖くて、あまりにも激しすぎる喧嘩だった。母娘でののしりあいが始まると、僕はただひたすら沈静化するのを待った。こういうときの吉田拓郎を想像してくれよ。あるとき、山下達郎が家内に説教してくれた。「あなたねぇ、あなたの旦那さんを、誰だと思ってるんですか。天下の吉田拓郎さんですよ」。
吉田佳代子サンは、こういう性格の人だったのか・・・。でも番組で拓郎は、再三再四彼女について触れていて、奥さんの尻に敷かれながらも夫婦仲は良好のようだ。こう言っちゃなんだが、前のふたりの奥さんも気が強そうな人だし、拓郎はこういうタイプが好きなんだろう。ただ過去の離婚については、番組でほぼ触れることはなかった。ほかのメディアでも語ったことがないようだ。自分が知る限りでは、以下の、2010年の田家秀樹著『吉田拓郎 終わりなき日々』が最後かもしれない。
「離婚の原因? なんで1回目が離婚になって、2回目も離婚になって、なんで3回目の奥さんと20年もやっていられるかって、それはやっぱり理由があるよ。離婚に関して原因を詳しく述べるのは相手がいることだから問題がある。ただそういうことによる、離婚やら何かによる自分の挫折感というような事は語ったことがないけど、心の中ではあるよ、いっぱい。人生の中で挫折はなんだっていったら、離婚だよ、僕は。がんの手術よりも、やっぱり離婚は挫折ですよ。あれは無いに越した事は無いですよ。何か挫折したことがあるかと言ったら。つまり、この人とはうまくやれなかったっていう、非常に問題点が残っているわけだな。自分の問題点と、自分の反省点とか、後悔とかが残っているわけですよね。で、2度もやっているわけだから、それは僕の人生の中では大きな負の要素だった。なきゃないで、こんなに良い事はないと思うんだけど、やっぱり大きな挫折を味わっているからね。そうすると、やっぱり3度目はうまくいくっていう。それは、その挫折によって勉強しているわけだから。」
『マークⅡ』
広島時代のクリスマス・イブ、僕はある女子大生と一緒に喫茶店にいた。そして、よからぬことを企んでいた。これから映画でも観て、お酒を呑んで、それから・・・と。だが僕はコーヒーが飲めない。オレンジジュースしか飲めない。だから盛り上がんない。すると彼女が言った。「私、今夜は男の友だちとパーティするから、帰る」。彼女はいきなり立ちあがり、すっと去っていった。ひとり喫茶店に残った吉田拓郎は、ぼ〜っとなった。これまでの努力はいったい何だったんだと。喫茶店の外を見ると、一台のクルマが止まり、彼女がひらりと乗りこんだ。そしてそのクルマ、マークⅡは走り去っていった。「わかってくれる ただひとりの君を~」。 わかってくれてないじゃないか!
この『マークⅡ』というタイトルの意味を、この話で初めて知った。四十余年前、ほぼリアルタイムで聴いたときから、なぜこの曲名なのか不思議だった。当時自分は十代半ばながら、マークⅡというクルマは知っていた。しかしこの歌詞から、彼女を乗せて走り去ったのがマークⅡだったなんて、わかるわけはない。びっくりである。
『ラブラブ愛してる』
50歳のときに、テレビの『ラブラブ愛してる』をやりだした。始まる前と始めてからも、いろんな人がいろんなことを言っていた。僕のやりたい理想のテレビ番組としては、生で演奏するなどの希望があった。でも叶えられない。いろいろ不満を抱えながらスタートしたのだが、1回目のゲストは安室奈美恵さんだった。テーブルの席位置が、キンキのふたりが右側で、真ん中に安室さんで、僕が左側だった。このセッティングだけで、こりゃダメだと思った。客席の中高生を中心とした雰囲気も、深いため息しか出なかった。つねに辞表を胸に入れて、いつやめてもいいと、本気で思っていた。でも不思議なもので、堂本兄弟がとてもピュアな若者だと、回を重ねるごとに感じるようになっていった。篠原ともえも最初はうざくて、心の底から俺が苦手とする女の娘だった。あの当時俺は、若者全体に対して、いい感じを持っていなかった。だから渋谷なんかで歩いている若者たちに、けりを入れたくなるような、無意味な怒りを抱いていた。それがキンキのふたりと話を重ねるごとに、若者に対しての反感が、尊敬の念に変わっていった。若い人たちから教わることが、非常に多いことに気がついた。
拓郎がこの番組に出たことは、賛否両論の「否」のほうが、圧倒的に大きかったろう。あのかつての神様、カリスマがこんな番組に登場してくるなんて、オールドファンからすれば驚き以外の何物でもなかった。しかし当の本人の苦渋は、それ以上のものだったのだ。ただ画面上ではいい味を出していた。テーマソングの『全部抱きしめて』にもいろんな意見があったろうが、明るくてとてもいい歌だ。自分はそう思う。
「LOVE LOVE あいしてる」の人形
『クリスマス』
フォーライフレコードで、『クリスマス』というアルバムを作った。そもそも、この会社自体を作ったことが若気の至りだった。そしてこの作品も、僕が思いついた案だった。4人のアルバムなら、たとえばクリスマスのなら、一千万枚ぐらい売れるんじゃないかと。でも全然売れなかった。一千万枚どころか、予定していた半分もいかなかった。それで、のちに僕が社長になったときには、このアルバム失敗のお詫び行脚をした。全国のレコード店をまわったのだが、どうしてくれるんだこの在庫を、と怒られた。ものすごく売れるというからいっぱい引きとったのに、山みたいになっているんだと。その店長さんたちは、みなゴルフ焼けをしていた。腹も立ったが、ひたすら頭を下げ続けた。
このアルバムはもともと拓郎ひとりの企画ものだった。ボブ・ディランの『風に吹かれて』を歌いたかったという。それがいつのまにか話はふくらみ、4人が勢ぞろいすることになった。さらに売れるだろうと目論んだのだ。しかしその思惑は外れた。10万枚でも大ヒットの時代に、30万枚もプレスしたが、売れたのは10万枚にも及ばなかった。フォーライフは売り切れのおそれがあると、予約の受付までしていたのに・・・。それにしても拓郎の言う「一千万枚」って、百万枚の間違いだろう。いかに自分たちが大風呂敷を広げていたかという、忌まわしい記憶の残滓が、彼の頭にいまだこびりついているのだろう。
かく言う自分は、拓郎ファンだったゆえ、このアルバムも当然買った。買わない選択肢はなかった。でも気に入った歌は泉谷しげるの『きよしこの夜』だけ。コミックソングとして大笑いさせてもらった。だが歌とはいえない代物だ。拓郎の歌では『街を片手に散歩する』がまあまあだったのと、陽水の『夏願望』も悪くなかった。でもそれだけ。あとは全滅だった。売れなかったと後に聞き、なるほどと「納得」するアルバムであった。
アルバム 『クリスマス』
泉谷しげる 『きよしこの夜』
『風の街』
『風の街』はレコーディングをしたとき、スタッフ全員が、とてもいい気持ちになれた曲だった。正直言うと、こういうことはそれほどあることではない。スタジオの空気と音が合うかどうかといった、偶然の要素もある。レコーディング・エンジニアとの相性もある。使ったマイクがよかったか悪かったかとか、器材との関係もある。僕は120点が欲しいからかもしれないが、すべてが完璧になったときに、ベスト・テイクが生まれる。それが『風の街』だった。
『風の街』を作詞した喜多條忠とは、よく原宿で呑んで、トランプ・ゲームをやったりして、楽しんでいた。僕はこの歌が大好きで、人に書いた曲の中での特等賞はこの歌。これは山田パンダに書いてあげた。詞の良さ、メロディの良さ、全体から滲み出てくる雰囲気の良さというのが、青春そのものなんです。いまでも口ずさむ。僕の二十代の思い出は、原宿の街なくしては語ることができない。若者たちが、原宿で出会い、別れていく。で、寂しくなったら、また原宿に出かけていく。またうっとうしいなと思ったら、また原宿から去っていく。心が自由な街だった。
アルバム 『明日に向かって走れ』
この『明日に向かって走れ』は、拓郎が四角佳子と別れたあとに出たアルバム。そのせいだろう、タイトル曲含め、寂寥感がただよう歌が多い。でも好きなアルバムのひとつだ。
『雪』
名曲だと自分で思っている。70年代の初期、まだヒット曲がなかった頃は、ひたすら地方のラジオ局をぐるぐる回り、1曲から3曲ほどを歌わせてもらっていた。よく行ったのは、信越放送と岩手放送だった。岩手放送には女性のディレクターがいて、毎年年末になると、特番を組んで呼んでくれた。彼女は番組が終わると毎回、「拓郎くん、ちょっと呑む?」と岩手の街へ誘ってくれた。すこし年上だった。ふたりで音楽のことや、これからの吉田拓郎について語った。元旦の、午前3時まで呑み明かしたこともあった。よき理解者だった、その女性ディレクターを主人公に、東京に帰って詞を書いたのが『雪』だった。このまんまのストーリーが、岩手での僕にあった。岩手に行かなくなってからは、その方とも疎遠になってしまい、もう顔も名前も忘れてしまった。この歌には、雪の夜をふたりで歩いた、年上の女性への、ある種の憧れがあった。
『ヤング・ギター・クロニクル 吉田拓郎 これが青春』という本によると、1970年拓郎は、岩手テレビのIBCオールナイトコンサートという番組に出演している。12月31日から1月1日にかけての放送だった。「元旦の午前3時まで呑み明かした」というのは、この年のことだったのだろうか。
アルバム 『青春の詩』
岡本おさみ
岡本おさみという人の詞で、うまくいったと思ったのは、『花の店』という歌なんです。歌詞とメロディがはまって、気に入っている。『歩道橋の上で』は、『旅の宿』の延長線上だったんですが、あれも岡本さんらしいと思った。でも彼は、あまりリズム感がなかった。松本隆らは、リズム感のある言葉を並べる。作詞家から詞をもらうと、シャッフルにしようか、8ビートにしようか、あるいはワルツにしようかという、曲の選択が浮かんでくるのだが、岡本おさみさんの詞からは、ノーアイデアだった。いつもなにも浮かばなかった。言葉にリズム感が漂っていない、不思議な人だった。たとえば喜多條忠の詞は、一行一行の字数が統一されていた。だからメロディがつけやすい。韻を踏んでいなくても、リズム感が漂っていた。岡本さんのは、一行目二行目三行目の字数がバラバラだった。毎回これをどうすりゃいいんだと思っていた。だから毎回、「ええいっ、8ビートで行けるところまで行ってみよう」というくらい、そういう感じで曲を作り始めていた。そして行けなくなったら、そこでまた悩んだ。あのころの僕は、ほんとに大変だった。普通、1番と2番は同じ長さなのに、岡本さんのは違っていた。だから1番ができて、2番を歌いはじめると、歌えなくなった。全然サイズが違っていた。そういうことが、日常茶飯事だった。だから2番を歌って、まだ詞が余っていると、もうひとつメロディを作った。3番目のメロディ、4番目のメロディを作るしかなかった。『君去りし後』は、5個くらいのメロディを作った。だから作った僕以外の人が歌うのは、難しかった。松本隆や喜多條忠の詞は歌いやすい。岡本おさみさんは詩人だった。作詞家ではなかった。
『君去りし後』は、いま聴いてもしびれる。次曲の『君が好き』も絶品で、これらが収録されている『ライブ73』は、拓郎のR&Bテイストが爆発しているアルバムだ。フォーキーな拓郎もいいが、ロック・シンガーとしての彼もまた最高だった。後発のライブ盤と較べても、これに優るものはないと思う。
さて『君去りし後』の歌詞には、「監禁された唄をきいていると・・・」の部分がある。この「監禁」の意味がずっとわからなかった。「けっこうテレビが似合うようになった・・・」も意味不明だった。それが3年ほど前、図書館で借りた岡本おさみの著書に、その「真相」が書かれていた。『旅に唄あり』という1977年に出た旧い本なのだが、この歌にはモデルがいたことを、岡本は明かしていたのだ。
当時、岡本が通っていた新宿の場末のスナックに、女性シンガーがいた。しかし暗い歌ばかりなので、耳を傾ける者が誰もいなかった。それがいつしか「陽気なブルースを歌いはじめた」。すると人気が出るようになった。岡本はこの変化を同書で、「監禁されていた魂に光が射して・・・」と表現している。「監禁」の意味は、暗い歌を好む、心の呪縛を指す比喩だった。やがて彼女は、名の売れた作詞家・作曲家によるレコードでデビューし、テレビに出演するまでになった。これが「テレビが・・・」の意味だった。岡本はこの女性と恋人関係にあり、そして別れたようだ。モデルとなったこの人は誰だったのだろう。あのころはよく歌番組を見ていたから、おそらく知っている歌手だろう。いまさらながら気になる。

『君去りし後』
ただし2002年版
『襟裳岬』
岡本おさみは音楽畑の人ではなかった。だから言葉にリズム感がなかった。でも『襟裳岬』は岡本おさみと吉田拓郎のメロディが、見事に合体した一曲だと思う。最初は『焚火』というタイトルだった。いい詞を書いたと感じた。なるべくいじらないで、このまま曲をつけたかった。森進一に曲を提供する話は、彼が所属する、ビクター・レコードのディレクターからだった。その人は、ソルティー・シュガーの一員だった高橋なのだが、夜な夜な原宿ペニー・レーンに僕を訪ねてきて、お酒を呑みながら、「曲書いてくんない?」と、口説いていた。彼のことはよく知らなかったが、山本コータローはよく知っていた。それで一丁やってみようとなった。当時、キャロル・キングの『つづれおり』というアルバムがヒットしていた。これはピアノ主体のアレンジがフォーク・ロック調になった、いい曲だった。その雰囲気で、自宅でギター、ベース、エレキ・ギター、ドラムが入っているデモ・テープを作り、ビクターに渡した。 (このデモ・テープが流れる。まさにフォーク・ロック調。ただし当時のではなく、最近の器材で録り直したもの) そして後日、オープン・リールで完成した曲が届いた。これはすでにあちこちで話してきたことだが、テープの最初の音を聴いたとたん、ひっくり返った。貧血がおきそうになった。まさかトランペットで始まるとは思わなかった。リズミックなものを想像していたから、びっくりした。これはなんだろうと戸惑った。しかし結果は大ヒットした。その年の歌謡大賞やレコード大賞を獲得することになった。あのトランペットのアレンジにより、日本中に襟裳岬のイメージが浸透した。いまから思えば、あれこそが演歌の王道のアレンジだった。僕がアレンジしたなら、あれほどヒットしなかった可能性がある、貴重な体験だった。このアレンジャーは馬飼野俊一という方で、僕のアイドルの曲でお世話になっていた、馬飼野康二さんのお兄さんだった。馬飼野俊一さんには敬意を表したいと思う。僕はいわゆる流行歌の世界、歌謡曲の世界をよくわかっていなかったのだ。演歌というものに対し、認識不足、勉強不足だった。それまではアマチュア・バンドで、ロック、R&B一辺倒でやってきていた。東京に来てからは、いろんなアレンジャーの人たちと歌を作っていく過程で、なるほどこういう手法があったかと、勉強になった。襟裳岬には馬飼野さんのアレンジ以外、考えられないと思う。時間がたってから聴いてみると、これしかないと思った。これが襟裳岬という曲のアレンジなんだと、納得した。詞はやはり岡本さんのだから、リズム感がなく歌いにくい。森進一という人は、いまさらながらだけれど、字余り字足らずの襟裳岬をよく歌ったなと思う。当時、岡本おさみ&吉田拓郎を歌うのは難しかった。まぁまぁ歌いこなしたと思うのは、由紀さおり、小柳ルミ子、森山良子、この三人ぐらいです。もちろん森進一は素晴らしかった。それから、岡本おさみと吉田拓郎のコンビに、歌の依頼は来なくなった。僕は自分で作るわけだから、何とか歌えるけれど、他の人には歌えないと思う。
08年に出た音楽出版社刊『吉田拓郎読本』によると、ビクター社内での『襟裳岬』の評価も厳しかったらしい。フォーク調の歌は森には似合わないという意見が大勢を占め、シングル盤のB面として発売されることがほぼ決定的だった。それを覆したのは他でもない、歌の内容に感動した森進一だったという。
また、『襟裳岬』誕生秘話として、このサイト、「みねやの二階」が詳しいようです。
『シンシア』
かまやつひろしさんと六本木でよく呑んでいたころ、「拓郎とふたりでセッションしたいなぁ」と、頻繁に誘われていた。あの人は70年代初期のころから、僕に積極的に接触を求めていた。ことあるごとに「会わない?会わない?」と、電話がかかってきていた。CBSソニーにいたころ、年に一度銀座で、全歌手が集められる、社長主催のパーティーがあった。そこでシンシアこと、南沙織さんと知り合った。僕は彼女が歌う『早春の港』が好きで、いい歌ですねと、初めて会話を交わした。すごくクールで、シンプルないい人だという第一印象があった。『早春の港』は、故郷をもたないあの人の、いいふるさとに私はなりたいという歌詞だった。僕も広島から出てきて、東京では放浪しているという気分のときに、その歌詞にジーンと来て、この歌のアンサー・ソングを作りたいと思った。南さんは気さくな人だったので、その後原宿ペニー・レーンに来てくれ、ミュージシャンの仲間たちと一緒に、ワイワイやるようになった。それでアンサー・ソングの話がまとまったのだが、かまやつさんと一緒にやるということがネックとなった(ブログ注:かまやつひろしは歌がうまくない)。僕ひとりで歌うときは、自由に作れるけれど、かまやつさんも歌えないといけない。彼はもともとカントリー歌手をやっていたので、その風味の曲がいいのだろうと、アメリカのバンドからヒントを得て、『シンシア』を作った。それでもかまやつさんは、この歌をなかなか把握してくれなかった(歌えなかった)。『シンシア』のB面になっている『竜飛崎』という曲、これも難しかった。
拓郎はかまやつひろしという人について、2006年つま恋コンサートで、「東京で、酒、女、ケンカの仕方など、悪いことを教えてくれた先輩、尊敬できないけど好きな人」と、ゲスト紹介している。一方小室等のことは、「売れないころ、飯を食わせてくれた恩義のある人」という位置付けのようだ。たしかに小室の歌はクラくて、拓郎のと全然違う。いずれにしろ拓郎はふたりを、音楽的にはさほど評価していないようだ。
(ただしライブ版)
『夏休み』
『夏休み』を作ったのは、エレック・レコードにいた頃だった。当時はおカネがなく、ミニ・バンドという素人バンドを連れて、コンサート・ツアーをおこなっていた。そのメンバーであるふたりは、広島のフォーク村の後輩たちで、慶応大学と、もうひとりは日本獣医大学の学生だった。エレキ・ギターとエレキ・ベースという変則的な、安上がりのバンドだった。エレックでは、これぐらいしか雇えなかった。でもふたりとはよく練習をした。エレックは四谷三丁目にある喫茶店の二階にあって、二十畳ぐらいのワンルームだけの小っちゃな会社だった。そこに夜中に集まって、エレキのアンプをぐっと絞っての練習をしていた。その場ではよく曲も作った。『どうしてこんなに悲しいんだろう』もそうだった。『夏休み』も、このミニ・バンド用にアレンジして作った。この三人編成は結構人気があった。しかしアルバム『元気です。』収録の『夏休み』でのミニ・バンドは、間奏の口笛を吹くことと、バック・コーラスだけだった。演奏はテクニカル的に無理だと、参加させなかった。歌詞のなかの「姉さん先生」は、鹿児島での小学校2年生のときの宮崎先生だ。同じクラスの女の子に履物屋の娘さんがいて、僕は相撲で投げ飛ばされ、気を失いそうになった。宮崎先生が僕をおんぶして、保健室に連れて行ってくれた。そのときの先生の背中の感触が、たまらなかった。そんなことを思い出しながら、ミニ・バンドと一緒に、エレック・レコードの二階の狭い部屋で作った。
『夏休み』の初出アルバム『ともだち』
(リンクは別ライブ版)
『たどり着いたらいつも雨降り』
原曲は『好きになったよ女の娘』という、広島時代、ダウン・タウンズというロック・バンドをやっていたときの歌だった。女の子たちに「吉田さ~ん」と、キャーキャー言われていたころだった。東京に来てからこの歌を、リメイクしようと思っていたが、ある日、モップスの鈴木ヒロミツ君が人を介して、「拓郎、一曲書いてくれないかな」と打診してきたので、ここで使うことにした。「疲れ果てて~」と歌詞を変えたが、我ながらいい出来だと満足した。次に大サビのメロディ部分、「心の中に傘をさして裸足で歩いてる自分が見える」は原曲にはなく、付け加えたもの。もとのメロディもよかったが、大サビができた時は、自分でもいい曲ができたと思った。モップスにこの曲を渡したのだが、その鈴木ヒロミツも先に逝ってしまった。
やっぱりこの歌が収録されている『元気です。』が、自分にとっての吉田拓郎ベストアルバムだ。全体の基調はフォークなのだが、ロックあり、パンクあり、ブルースありで、彼の多種多彩な才能が、この一枚に凝縮されている。『春だったね』に始まり、ラストの『ガラスの言葉』まで、すべての歌が素晴らしい。自分と同年生まれの漫画家江口寿史も同様に絶賛しているが、彼はこの『元気です。』がなければ、人生が変わっていたとまで言う。自分と多くの同世代人に与えた影響力は、とても大きかったようだ。
アルバム『元気です』収録
(リンクは別バージョン)
『恋の歌』
広島で僕は、河合楽器という楽器屋さんで、ギター教室を毎日やっていた。これがけっこういいおカネになった。女子高生たちから月謝をとって、隣にあるパブ・クラブに行っては、酒を呑んでは女の娘をひっかけていた。ギター教室は人気があって、女子大生もいたし、男の子は少なかった。でも僕はギタ-教室や、ロック・バンドでは人気があったが、普段の大学生活ではまったくモテなかった。コンパなどで一緒に呑んで打ちとけても、ガール・フレンドはできないし、女の娘から告白されたことも一度もなかった。これは今も同じで、歌っていない吉田拓郎はモテない。この広島時代、ちょっと有名な噂の女子高生がいた。シミズエミコという人だった。広島では有名な、きれいで可愛い娘だった。この子が広島の目抜き通りを歩くと、みんなが見とれるような噂の美少女だった。あの子が僕の彼女になってくれないかなという、妄想の中から生まれたのが『恋の歌』だった。「あついあつい涙が君の頬を濡らして僕の唇に一滴落ちてきた」。さきに詞ができて、メロディは後だった。東京に来てから曲を書いた。
『また会おう』
岡本おさみからこの詞をもらったとき、彼は何が言いたいのか、書かれてある意味がわからなかった。こういう詞には、3コードのブルース・コードしかない。アマチュア時代から、3コードは得意だった。僕はこのR&Bの音を、プロの音楽界でやりたかったのだが、フォークソングという、全然ちがう世界に入ってしまった。アルバム『元気です。』で、『また会おう』のギターを弾いているのは、アマチュアの東京獣医大学生田辺かずひろだ。ライブ・アルバム『ともだち』で彼は、バック・バンドをやっていた。同じくベースも、アマチュアの慶応大学生井口よしのりだった。『また会おう』での演奏を任された田辺は、「拓ちゃん、こりゃぁ、わしゃあ、一生の思い出じゃけんねぇ、演らせてくれてありがとうね」と、広島弁で感謝していた。田辺は素人ながら、ここでいいソロを弾いている。キーボードは松任谷正隆だったが、ピアノを半分のペースで弾いて録音し、ミックスダウンで再生のときに、速さを倍増させた。これにより、人間が弾いたとは思えないような音になった。歌は、岡本さんの詞が伝わろうがへったくれもなしに、とにかくシャウトした。気分だけはブルースで、シャウトした。
『オン・ステージ ともだち』のジャケット見開き写真
貴重な井口と田辺の画像
(ほとんど何もわからないが)
(別ライブ版)
つま恋コンサート
夏が来ると思い出すのは、1975年の『つま恋コンサート』。次の日の朝まで歌うという、日本で初めての、前代未聞のコンサートを思い出す。主催者側もやってみなければわからないという体験だった。本音をもらせば、みんな怖がっていた。楽しみにしているとは、とても言えなかった。何が起こるかわからないという不安と、5~6万人という人たちの前でものごとを行なうということが怖かった。当日、オープニングステージに向かう僕は、宿舎から出ると、地響きのような歓声を背中に感じて怖かった。これから俺ひとりで歌のは大丈夫なのかと思った。ステージ裏で30分ほど待ったが、バックバンドをやるトランザムの連中も、「怖いよな、拓郎」て言ってた。「一杯やろうか」とも言った。そうしないと足がすくむし、手が震えるし、なによりステージに出ていく勇気がわかなかった。メンバーのチト河内さんが、バーボンを勧めてくれた。すこし口に含んだが、とても呑み込めず、その場に吐いてしまった。緊張の極致だった。心臓バクバクの異常事態だった。ない勇気を振りしぼって、声を震わせながら叫んだ。「朝までやるよ~」と。いま思えば、センスのないフレーズだった。自分を奮い立たせるために、とっさに出た言葉だった。あとで出演者みんなでビデオを観たが、南こうせつの顔が引きつっていた。あの男は作り笑顔が多いが、このときは口元だけが笑っていたので、みんなで大笑いした。山本コータローのTシャツの脇が破れていたが、これもそのときは誰もわからなかった。とにかく出演者全員がパニック状態でオープニングが始まったが、ようやく落ち着いたのは、最後のステージになってからだった。だからあの日のことは、ほとんどなにも覚えていない。
最初のステージに上る瞬間。
極度の緊張が見て取れる
吉田拓郎語録(3/3) へ続く













