吉田拓郎語録(3/3) 『ラジオでナイト』全放送から独断で選んだエピソードトーク | Kou

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音楽雑感と読書感想を主に、初老の日々に徒然に。
ブログタイトル『氷雨月のスケッチ』は、はっぴいえんどの同名曲から拝借しました。

吉田拓郎語録(2/3)から続く

 

 

 

 

 

 

 

 

『この指とまれ』

 

この歌をレコーディングした頃のバンドは『悪ガキバンド』といい、メンバーは、ドラムの島村英二、ベースの武部秀明、ギターの青山徹、キーボードの中西康晴、エルトン永田だった。みんな暴れん坊の酒飲みで、いろいろ遊んでいました。ただ演奏も脂がのっていて、エネルギッシュだったが、非常に個性も強かった。強すぎて、リハーサルでもぶつかり合うことが多かった。バンドとして核は中西康晴で、その存在が大きかった。ただ残念なことにこのバンドは、レコーディングが弱かった。ステージほどエネルギッシュではなかった。悪ガキバンドの由来は、コンサート・ツアーが終わって、東京に帰って来ても家に帰ろうとせず、みんなと一緒に居たい、遊びたいと、東京駅からまた銀座や六本木の寿司屋にあつまって、また飲み始めていたからだ。中年の不良バンドだった。『この指とまれ』の歌詞は、それまで居た世界に別れを告げたくなっていたことにある。さよなら70年代の意味で、かつての古い友人たちに決別を告げる用意ができたという、意味だった。当時僕は35歳か36歳だったのだが、この曲が、のちに50歳の誕生祝いをハワイでやったときに繋がってゆく。50歳のときに、それまでのぐずぐずした友人関係にピリオドを打ったのだが、三十代半ばで、そういう将来を予感させる詞を書いたということになる。三十代半ばから、さらば旧友という気持ちになっていた。ここらから気持ちがくすぶり始めていたのかと、今回聴きなおしてみて、あらためてそう思った。70年代や、フォーライフといったものが、自分にとっては重すぎるという思いがあった。かつて関係していた人たちと、話すことが面倒くさくなっていた。

 

かつての、フォーキーな歌を求めるファンに拓郎サンが冷たいのは、こういった理由によるものなのか。それまでの多くの人間関係を絶ってしまったとは相当なことだ。田家秀樹の本かどこかに書いてあったのだが、彼は若いときの自分の写真やビデオを見るのもイヤなのだという。ならば、過去にまつわる人々と話をしたくないという気持ちも理解できる。ただ、絶交を言い渡された人々からすれば、さぞ驚いたことだろうし、腹も立ったろう。気ままな拓郎らしいと言えばそれまでなのだが・・・

 

一方ラジオでナイトで拓郎は、「喜多條忠に、人を介して連絡を取ろうと思っている」と洩らしていた。喜多條はかつて一緒に多くの曲を書いてきた作詞家なのだが、この言葉をそのまま解釈すれば、現在ふたりは直接的な連絡を取り合う関係にはないようで、彼も絶交されてしまったひとりなのかもしれない。にも拘らず現在の拓郎は、喜多條に連絡を求めている。番組内では再三にわたり、喜多條との思い出話を繰り返していたから、きっとなつかしさでいっぱいなんだろう。若いころと同様、老いても拓郎サンの身勝手さは、むかしと全然変わっていないようである。翻弄される周囲も気の毒である。

 

アルバム『無人島で…。』

 

 

 

 

 

 

『アキラ』

 

みんなの心のなかにも、『アキラ』という存在がいるのではないか。そう思い、この詞を書いた。「シュロの木の下で、かげろうが揺れている」。ここのメロディが好きなんだ。ヤシの木みたいな感じのシュロの木を、みなさんご存じだと思うんですが、僕は鹿児島に生まれ、小学校の1年生まで住んでいました。その通学路に、シュロの木が植わっていた。しかしアキラという存在は、小学校時代にはいなかった。大好きな宮崎先生は、鹿児島時代に実在していて、それは『夏休み』という曲に登場してくるのですが、アキラのような存在は、じつは中学、高校になって出てきた。この歌のイメージとは違うが、藤井君という親友がいた。勉強は僕と同じレベルで、あまりよくできなかった(笑)。中の上だった。藤井君は僕に、ポピュラー・ソング音楽の楽しさとかを教えてくれた。僕はFEN、岩国放送を聴くようになり、全米ヒットチャートの楽しさを藤井君に教えた。そうして仲よくなった。彼の自宅にはピアノがあったので、その横で僕はギターを弾いたり、ウクレレ弾いたり、女の娘を呼んだり、演奏したりしていた、彼はのちに広島で作った、ダウン・タウンズというバンドにゲストで来て、レイ・チャールズを歌った。中学高校時代、いわゆるワルの連中に、僕はよく睨まれていた。僕は狙われるタイプだった。でも危なくなると、必ず藤井君が僕を助けてくれた。藤井君は水泳部で鍛えていたから、体も大きく、喧嘩も強かった。藤井君は一匹オオカミで、ワルの連中も、藤井君には一目置いていた。僕は彼を、寄らば大樹的な存在にしていた。強い奴の後ろからヘコヘコついて歩いている吉田拓郎だった。藤井君はまさに、歌のような『アキラ』のような存在だった。きのうこの曲をじっくり聴いていて、我ながら気分が高揚した。同じコード進行で、メロディをアドリブ風に歌うところが後半にありますが、ここで自分で胸が熱くなってしまった。「この歌は泣かせるわ」と自分で思ってしまった。

 

『アキラ』は、1993年のアルバム『AGEIN』の一曲である。かつての拓郎節を彷彿とさせてくれるいい歌だ。当ブログの冒頭で自分は、80年代以降の拓郎には魅力を感じないと書いた。でも『アキラ』は素晴らしい。本人自らが、「泣かせる」と言うのもわかる。恋だ愛だとかよりも、回顧的な友人関係の歌のほうが身に沁みるのは、自分も歳をとっただけかもしれないが。

 

田家秀樹が吉田拓郎を描いた、『いつも見ていた広島』という小説がある。タイトルから察せられるように、拓郎の広島時代を描いた物語だ。ここに藤井君のモデルと思しき、藤田和之という名の友人が登場してくる。上の拓郎の話と重なる部分もある、そのシーンを引用させてもらう。

 

「藤田和之の実家は広島でも有数の医者であり、家の応接間にはアップライトのピアノもある。中学時代からケンカは学校で一番強かったし、二の腕にはジャックナイフの刺し傷もある。そのうえ水泳部で、スポーツは万能、高校の応援部でもリーダー的な存在だった。それでも、何かあると真っ先に拓郎を助けてくれた。男はケンカが強くなければいけない。そんな風潮の強い広島で、決して頑強とはいえなかった拓郎が、中学、高校時代を楽しく過ごすことができたのは彼がいたからでもあった。


腹の立つこともあった。拓郎を応援部に誘ったのも彼だ。そのくせ、最初の市内パレードで、先頭で太鼓を持った拓郎に、デパートの天満屋に入れと命令したまま、姿を消してしまった。意気揚々と太鼓を叩いて店の中に入っていったら、後には誰もいなかった。あんな恥ずかしい目にあった事はなかった。結成したバンドのプレイボーイズの時も、誰よりも自分が一番目立つ歌を歌ってしまうとんでもない奴だ。でも、そんなことも許されてしまう豪快さと気遣いを兼ね備えた頼れる男だった。」

 

アルバム『AGAIN』

『アキラ』

(別バージョン)

 

 

 

 

 

 

『大いなる』

 

この歌は僕にとって思い出深い。フォーライフ・レコードをつくって、1年半から2年くらい、会社の社長を引き受けた。30~31歳のときで、これは大変なことだった。これからは独りぼっちとなる。会社経営の素人ではあるけれど、それでも胸を張って堂々と、誰にも負けないという心境、意気込みだった。そんな気持ちをこめて、この歌をつくった気がする。社長業というのは、僕には嫌な仕事だった。何回も落ち込んで、やけ酒を呑んだりしたが、僕は基本的に根が明るいので、ひとりで苦しむよりは、業界の大手の芸能プロダクションの社長さんたち、諸先輩たちに相談しに行った。そうやって乗り切った。フォーライフには当時、50人ほどの社員がいた。彼らには家族も居たわけで、その人たちも含めて背負って生きていかなくてはならない。これが結構プレッシャーで重かった。最初にやったのは、社長である僕の給料も含めて、幹部たちの給料をその月から下げた。ボーナスの査定もつらかった。クビの宣告もした。そんな時は、ひとりで六本木の行きつけのバーでやけ酒を呑んだ。このバーは『マスターの独り言』の店。社長になったとき、渡辺プロダクションの渡辺晋社長に、「どうだい、拓郎くん。会社ごっこは楽しいかい」と言われていたが、僕が引き受けた頃は会社の経営状況が大変で、とにかくレコード会社なんだから、どんどんレコードを出して、1枚でも多くレコードを売るということしかなかった。夢を追いかけるのはもう十分で、現実的になろうとした。ミュージシャンとしては、一アーティストとしては、非常に夢のない毎日が始まってしまった。しかし夢のない日常ではあったが、まだ31歳の若造が話題の会社の社長になって、社会を歩き回るわけですから、正直いって、野望とか野心とかにも満ちていただろうなと思います。でも結果論でいえば、フォーライフは若気の至りだった。井上陽水も言っていた。「魔が差したんだよ」。『大いなる』は、そのころつくった歌だった。

 

アルバム『大いなる人』

『大いなる』

 

 

 

 

 

 

『人生を語らず』

 

1974年のアルバム『今はまだ人生を語らず』から『人生を語らず』。この曲は、時代と当時の僕の若さや勢いが、全部爆発している感じがある。いまでもコンサートの際のリハーサルで、この原曲をみんなで聴くと、「拓郎さん、すっげ~、若けえなぁ」って言われます。自分でも、ロックだなぁと思います。こういう歌を、最近は作っていない。次の一発録りのアルバムには、こういう歌を入れたい。『人生を語らず』のキーボードは、松任谷正隆だった。そして松任谷が連れてきた平野兄弟の、ベースとドラムが入っている。『元気です。』でのドラムは林立夫だったし、まだ島村英二らとはまだ付き合いがなかった。今このボーカルを聴くと、一発録りしているぐらいにシャウトしている。同アルバムには、『ペニーレーンでバーボン』という曲もある。ただし事情があって、この歌は現在は削除されてしまっている(ブログ注:歌詞に差別語があるため)が、この二曲のボーカルは凄いと思う。『人生を語らず』のエピソードとしては、のちに瀬尾一三たちと演ったときは、瀬尾ちゃんのアレンジで、「目覚めるときだから旅をする」のコード進行部分が、別のバージョンになった。以降、そのアレンジがなぜかこの歌の「標準」とされてしまう。時は過ぎ。2012年のリハーサルの際、「ちょっと待ってくれ、元はこうじゃなかったか」と、僕が言い出した。そこでオリジナルを聴きなおしてみたら、その通りだった。皆が「いまさら」とびっくりした。以降はオリジナルに戻したが、自分で作っておきながら、瀬尾ちゃんに思い込まされていた自分自身にも驚いた。この歌を今聴くと、『すげえなぁ、拓郎さん」と自分でも思う。

 

『今はまだ人生を語らず』

『人生を語らず』

(ライブ版)

 

 

 

 

 

 

ボブ・ディラン

 

僕は広島でロック・バンドをやっていたが、フォークであるボブ・ディランの『風に吹かれて』も、心の中に入ってきた。FENから流れてきたのを、友人の神庭がテープに録音していて、それを聴かせてくれたのだが、なんだこりゃと思った。上京するきっかけになったのも、『風に吹かれて』だった。それまでは、フォーク・ソングには興味はなく、ロックやR&Bが好きで得意だったところに、いきなりこのギター一本の歌に魅かれた。野暮ったいギターの弾き語りだったが、それでもボブ・ディランの世界に引きずり込まれていった。そのうち広島にも訳詞が出始めたのだが、読むたびに、そのオリジナリティに完璧にノックアウトされた。それまで聴いていたアメリカンポップスは、好きだよとか愛してるとか、能天気なラブソングがメインだった。そういう歌詞とボブ・ディランのはまったく違っていた。答えは風の中にあるなんて歌詞は、当時のアメリカンポップスには絶対なかった。この新鮮さが心に響いた。愛だ恋だ花だ、一週間が楽しくてしょうがないといった歌詞に食傷気味だったところに、ディランの歌詞に新しさを感じたのだ。そしてボブ・ディランはエレキ・ギターを手にして、ステージに立った。これは僕にしてみれば、「やったね」だった。フォーク・ソングじゃないと、彼はブーイングされたが、それが僕にはカッコよく見えた。ブーイングのなかで、平然と歌っているボブ・ディランにしびれた。これぞロックン・ローラーだと思った。ますます好きになって、結局、ボブ・ディランの世界にどんどん入っていった。ボブ・ディランには形から入ったし、その詞を訳したり、評論家の人たちが語っているようなことは、僕にはできない。単なる一ファンだった。彼のスタイルが好きなだけだ。それからメロディが好きだ。稀有なメロディ・メーカーであり、作詞でもノーベル賞を獲った人のだから、すごい人です。でもボブ・ディランも変化していて、結局、『血の轍』あたりだったか、宗教的な、神が出てくるようなところから僕は分からなくなった。僕には難しすぎるなと。そのあとずっとボブ・ディランを一途に追いかけることはできなくなってしまった。

 

『風に吹かれて』

(別バージョン)

 

 

 

 

 

 

コンサートのラストソング

 

メンバー紹介は『ひとり想えば』がいいんじゃないかという、リスナーがいるが、俺この歌思いさせないんだよ。最近自分の曲がわかんないんだよ。でもこの歌俺好きなんだよ。この矛盾! ラストソングは、一番最後は何がいいかという、アンケートを募集したが、書いてあることをほとんど僕は気に入らない(笑)。ただ参考になるのはあるので紹介する。『永遠の嘘をついてくれ』や、『明日の前に』をしんみりと歌ってほしいとの希望があるが、ダメです。これは三拍子なので、ダメです。三拍子を最後にすると、どんよりする。『外は白い雪の夜』も同じ。『落陽』も外す。『新しい朝』という希望があるが、古い。『春だったね』を、待たせて待たせて、ついにラストにやるっていう案があるが、これは悪くない。いい印象があるかもしれない。ただし『祭りのあと』に限らず、岡本おさみさんの詞の曲は、いまはその心境じゃない。あの歌は名曲で、70年代のその時代を象徴していたが、いまの心の在り方からすれば、違う。『君去りし後』も同じこと。『人生を語らず』は歌いたいが、『明日に向かって走れ』はありえない。この歌は拓郎さん絶頂期の歌だというリスナーがいるが、よく言うよ。絶頂期って、はっきり言うなよ。『アキラ』はストーリー性があるからラストには向かない。『流星』はどこかで歌いたい。『頑張らなくてもいいでしょう』はありかもしれない。

 

『ひとり想えば』はB面

 

 

 

 

 

 

 

 

リスナーが嫌いな吉田拓郎の歌

 

パーフェクト・ブルー

「陰湿な歌。アルバム『無人島』を聴くときは、この曲を飛ばす。『白い部屋』も嫌い」
マラソン

「歌詞とメロディが長く暗い。救いがない歌」
落陽

「やさぐれた男が大嫌い」

外は白い雪の夜

「三月いっぱいでラジオでナイトが終了するということで、淋しい限りです」。淋しい限りと言いながら、嫌いな曲を書いてくるという、この根性はどういうことだ。「そして浜松のコンサート行きます。いまからワクワクしています」。俺はワクワクできないよ。君が来ると思うと。「さて、私が嫌いな曲は、『外は白い雪の夜』です。申し訳ありませんが、私、本当に好きじゃありません。あんなドラマティックな歌詞、どうしても拓郎さんには似合わない」。普通ならドラマティックな歌詞だから、合うんじゃないのか。ドラマティックな歌詞を拓郎さん、よく歌いこなしてくれましたねと言うんじゃないのか。君は僕を何だと思ってるんだ。「何年か前の紅白で歌ったときも、ショックでした」。失礼な、君、ほんとにコンサート来るの?浜松は手抜きしようかな。
 

ここで取り上げた歌は、自分もみなキラい。むろん『外は白い雪の夜』も。そしてこの投稿者と同じく、浜松に行く。当日のMCでこの話題に触れてくれたら、おもしろいのだけれど・・・

 

 

 

 

 


『風邪』

 

僕はこの曲が好きなんだ。若いころからギターのコードは、C、Amを、Am、Cに順番を変えていた。そしてディミニッシュと、オーギュメントというコードも多用した。(『風邪』や『ガラスの言葉』を歌う) こういうコードをいっぱい使ったから、吉田拓郎の音楽は、周囲のフォーキーな雰囲気と違っていた。メロディやアレンジは、吉田拓郎流を貫いたと自負している。名盤といわれた『ライブ’73』のロック・テイストやソウル・テイストも、あの時代のフォーキーとは異なっていた。時代がまさにフォーク・ブームの真っただ中だったし、だから『神田川』なんかの大ヒットもあった。でも僕から言わせれば、どうでもいいつまんない和製フォークがいっぱいあった。僕が目指していたのは、日本のポップスだった。だから他の人にも曲を提供してきた。広島時代から、あらゆるジャンルが大好きで、とくにビートの効いたオーケストラ・サウンドの、ビリー・ボーンや、パーシー・フェイスも好きだった。

 

この『風邪』が収録されているアルバム『伽草子』は、拓郎が四角佳子と結婚したあと、初めてリリースした作品である。普通なら幸せいっぱいの時期だろう。しかしアルバム全体の雰囲気はなぜか元気がないように思える。これは結婚崩壊の序章が、もう始まっていたのではないだろうか。それまでの自由気ままな独身生活から一転、家庭に束縛される日々がその理由なのだとは、うがった見方が過ぎるだろうか。岡本おさみの詞ではあるが、『蒼い夏』の達観したような自己心象描写は、その典型のように思える。そして彼女との関係がさらに悪化してゆき、次作『ライブ’73』、次々作『人生を語らず』では、その鬱憤を晴らすため、パワフルな歌が生み出されていったなんて、これもさらなる勝手な憶測なのだけれど・・・

 

 

 

 

 

 

 

『あの娘に逢えたら』

 

エレック・レコードの時代に、新宿二丁目に『がんばるにゃん』というスナック・バーがあった。ここでよく呑んでいて、双子の女の娘が働いていた。札幌出身の「デラちゃん」「チャコちゃん」という、かわいい双子だった。バーテンが、僕の初代マネージャーだった。彼女たちと付き合ったわけでもなかったが、東京で初めて知りあった、そして東京のことをいろいろ教わった、仲がよかった女性たちだった。そしてなぜか、彼女たちのボディ・ガードになりたいと思ったことがあった。そんなことを思い出しながら、のちに『あの娘に逢えたら』をつくった。

 

シングルB面が『あの娘に逢えたら』

 

この歌、『あの娘に逢えたら』が好きだ。のんびりゆったりとしたメロディがいい。聴くたびに、当時付き合っていた彼女を思い出してしまう。いまごろどうしているだろう。この歌にもモデルがいたのか。創作由緒を話してくれた拓郎サンに感謝したい。

 

 

 

 

 

 

『地下鉄に乗って』

 

『猫』というグループが、僕の後輩として同じ事務所エレックにいた。そしてCBSソニーの、僕の『オデッセイ』というレーベルに入れて、『雪』と『地下鉄に乗って』をプロデュースした。『地下鉄に乗って』は、岡本おさみからもらった詞に、秋田か青森のコンサートの帰りの電車の中で、ギターを弾きながら作った。だから電車に乗っている感じが出ている(笑)。イメージは地下鉄の丸ノ内線だった。、すごいおもしろい出来となり、自分で歌うつもりだった。当時はたいへん忙しいスケジュールで、猫と全国を回っていたのだが、この歌のレコーディングも、コンサートの合間だった。CBSソニーのスタジオに夜中に猫と一緒に駆けつけて、その場で、「せいの」で一発どりで演奏した。ドラムにチト河内を呼んで、僕がガット・ギターを弾いた。コーラスも猫に、その場で指図してつくった。

 

猫の3人と

『地下鉄に乗って』

(吉田拓郎バージョン)

 

 

 

 

 

 

『ともだち』


デビュー当時は、あるときはデパートの屋上で歌い、またあるときは地方の小さなレコード店の店先で、ミカン箱の上で歌った。東京で人気のあった、グループ・サウンズの前座もやった。毎日、新高円寺の自宅から、丸ノ内線の四谷三丁目のエレック・レコードまで通った。朝9時半から7時ごろに帰るといった、サラリーマンのような毎日を過ごしていた。僕の歌を聴いてくれていた女子高生が数人いて、そのうちエレックを訪ねてくるようになった。せっかく来てくれたというので、エレックの下にあった喫茶店でお茶を飲んだり、近くの新宿御苑に行った。『どうしてこんなに悲しいんだろう』とかを聴かせ、感想を聞いたりした。そんな様子を見ていたエレックの専務が、吉田拓郎はどうやら可能性があるかもしれないと、71年、月に1回というペースで、客席が百とか三百というところで、マンスリーコンサートを開くことになった。紀伊国屋ホールや、安田生命ホール、新宿厚生年金小ホールで、3~4回やった。1回目は、紀伊国屋ホールで、ほとんどがサクラだった。エレック・レコードがチケットをばらまいてくれて、客席はいっぱいになったのだ。このマイクひとつだけののステージを、エレックはアルバムにして商品化してしまった。そんなこんなで、とんでもない会社に入ってしまったと気づき、歌の道は挫折したと思った。そんなころに、鹿児島の谷山小学校で同級生だった、前田仁が訪ねてきた。小学校時代は、家にも遊びに来ていた。彼は、発足したばかりのCBSソニーレコードで、にしきのあきらのディレクターをやっていた。前田に現状を話すと、そのままでは将来がないと言われ、エレックをやめた。このころに『ともだち』をつくった。

 

『たくろうオン・ステージ第二集』

裏ジャケット

 

CBSソニーでの初アルバム

『元気です。』歌詞カード

ディレクター欄などに前田仁の名が見える

 

 

 

 

 

 

『ぷらいべえと』

 

このアルバムは、フォーライフが危ないときで、深夜に録音した。スタジオ使用料が安かったからだが、レコーディングのときは風邪をひいていて、鼻声で歌った。プロは青山徹とエルトン永田ぐらいで、あとはアマチュアや、安いミュージシャンで録音した。しかしなぜか、無茶苦茶売れた。

 

石原信一著『吉田拓郎 挽歌を撃て』は、『ぷらいべえと』制作の内幕に触れている。下の引用は、前段が拓郎の言葉で、後段は石原の記述となる。

 

「やっぱり俺が一番あおりを食ったよ。『ぷらいべえと』というレコード、あれは会社が大左前になっていてさ。年度末までにレコードを作ってもらわなきゃどうにもならんって言われてね。だから大急ぎで始めたんだけど、スタジオもミュージシャンも時間がなく押さえられなかったんだよ。仕方なくスタジオは夜中の12時過ぎからのレコーディングでね。もうそれしか時間が取れないんだから。それも毎晩。そりゃ眠くなっちゃうよ。メンバーにしても昔から知ってる仲間に頼んでさ。ドラムをほとんど叩いたことをがない奴がドラムを叩いたりね。で、『くちなしの花』なんか歌ってるんだもの。もう地獄のレコーディングだったよ」

 

アルバム『クリスマス』の失敗で、フォーライフは2年目の決算時には8億円の大赤字となった。『ぷらいべえと』は拓郎の好きな曲を集めて自分が歌うという、一種の遊びのレコードだ。レコード・ジャケットも時間がないということで、週刊誌に載っていたキャンディーズの蘭ちゃんを、拓郎がクレヨンで描いたものだった。アマチュアも参加したバンドを使ってのレコーディングだったが、皮肉にもフォーライフになってから出した拓郎のレコードの中では一番良い売れ行きとなった。パート2を作ってくれと営業サイドから注文があったが、それだけは拓郎も頑強に断った。

 

『ぷらいべえと』

収録曲 『ルームライト』

 

『ぷらいべえと』ブックレットから。

やはり疲れた表情に見える

 

 

 

 

 

 

 

がん再発

 

僕はいろんな病と闘ってきた。2003年に肺がんで、肺の三分の二を切除した。これは、風邪気味だったので、かかりつけの医者に行ったら、偶然運よく発見された。手術後は、肺活量が大幅に落ちたが、運動やボイストレーニングなどで、カムバックできた。しかしまた2007年あたりから、原因不明の不調による毎日が始まった。これが長く続き、2009年、最後の全国ツアーと銘打ったコンサートが、途中で中止となった。2011年あたりから、徐々に改善されるようになったが、また2014年には、声帯に白板症という異物が発見される。これを放置すると声質が変わってしまうということで、手術をすることになった。異物は除去されたが、その際にまたがんが発見された。放射線の治療を受けることになり、二カ月間病院に通った。治療自体はそれほどではなかったが、副作用による、苦痛の日々が始まった。食べ物は喉を通らない。声は出ない。喉が非常に痛い。放射線の治療が終わってからも約半年間、苦痛の日々が続いた。もう歌えないと何度も思った。かみさんが黙々と日常生活を送りながら、静かに支えてくれた。必ず完治するからと励ましてくれた(涙声で)。痛みで食べ物が喉を通らないので、おかゆを毎日作ってくれた。そのおかげで2016年には、素晴らしいミュージシャンやスタッフに支えられ、ステージで甦ることができた。その後も、あっちが痛い、こっちが痛いと病院通いを続けてはいるが、毎日を元気に過ごしている。苦しい体験をしましたが、人間は健康でないと、何も幸せを感じない。力が湧いてこない。若いころは健康なぞどうでもよかったのだけれど、それはとんでもないことで、体が健康でないと、また愛がある生活がないといけないと、痛感した。

 

 

 

 

『吉田拓郎語録」






 

 

 

 

ブログ後記

 

最終回であった3月31日の放送では、フィナーレにふさわしい話題が聴けるかと、耳を澄ませていましたが、さしたるものはありませんでした。拙稿もそのため、あっけなく終わってしまいました。

 

それにしても拓郎サンは、また人知れず病に苦しんでいたんですね。二十代で人気の絶頂をきわめ、その後も第一線を走り続けてきたわけですが、五十代半ばからその疲れが一気に表面化したのか、大病を患いました。しかし上の告白にあるように、以後も公にしなかった病魔が、断続的に襲ってきたということになります。番組内で拓郎サンは、ギター片手に何回も歌っていました。しかしその声も、やはり老いていました。若いころの声が耳にこびりついている者にとっては、聴くのは正直つらかったです。おそらく最後になるかもと本人が言う、今回のコンサートに行きますが、果たしてどうなるのでしょうか。

 

冒頭述べたように自分は、前回のコンサートも観ました。そしてあれが拓郎サンの見納めだと思っていました。でも幸運にも今回もチケットが手に入った以上、また行かせてもらいます。ただし岡本おさみや他の人の詞の歌は、もう歌わないようです。だから自分にとっては、知らない歌がほとんどになってしまいそうです。でも彼の絶妙なMCは健在のはずです。拓郎の歌で青春をともにした友人と一緒に、浜松の地で楽しんできたいと思います。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。