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Kou

音楽雑感と読書感想を主に、初老の日々に徒然に。
ブログタイトル『氷雨月のスケッチ』は、はっぴいえんどの同名曲から拝借しました。

昨年、吉田拓郎は、ラジオ番組『オールナイトニッポンゴールド』で、加川良を話題にしました。ふたりは同じシンガーソングライターとして交流があり、拓郎は加川のことを「こさい」と呼んでいたという。

これを聞き、思いだしたことがあります。もう半世紀も前のこと、自分の友人が、「加川良には妹がいる」と話していたのです。友人がなぜ妹の存在を知ったのか、いきさつは忘れてしまいましたが、教えてくれた妹の名、「こさい○○」だけは鮮明におぼえていた。語感がちょっと変わった名字だったからでしょう。ですが当時加川は、『教訓Ⅰ』がヒットしたそれなりの有名人だったので、友人が妹を知っていること自体が半信半疑でした。


その「こさい」という名が、突如拓郎の口から飛び出た。驚いた。調べると、Wikipediaには加川良の本名「小斉喜弘」が記されていました。友人の言葉は本当だったのだと、拓郎から知らされたことになります。

拓郎は番組で、加川との交流期間は短かったと話した。理由については濁していましたが、自身の人気が圧倒的に大きくなり、住む世界が変わってしまったからでしょう。ですがふたりには共作の歌があります。ファンなら周知の、加川が作詞し拓郎が作曲した『加川良の手紙』です。


今日はこの歌の創作話をご紹介します。新アルバムの曲数が不足した拓郎が、急遽、加川に詞の提供を求めたという、いわば打ち明け話です。正直なところ、歌そのものは急ごしらえ感が否めないものです。ですが、拓郎がなつかしい加川のことを話したことが、自分にはとてもうれしかった。


そして自分は、『加川良の手紙』が収録されたアルバム、『元気です。』が大好きです。拓郎はこのアルバムを制作したフォーク・ソング期をとかく否定しがちなのですが、オールド・ファンにはやはり欠かせない作品です。オープニングの、若さほとばしる『春だったね』のイントロが流れるだけで、気持ちは一気に高校時代に舞い戻ってしまいます。

というわけで、以下では加川の話に続いて、同アルバムについて書かれた文章を活字メディアから引用させてもらいました。拓郎ファンなら、とりわけ『元気です。』のLPをすり切れんばかりに聴いていた世代にとっては、きっと琴線に触れるはずです。

 

ご一読いただければありがたいです。




引用させていただいた資料
『吉田拓郎読本』 音楽出版社
『週刊現代』2020年8月8・16日合併号
『吉田拓郎』地球音楽ライブラリー

 

 

 

 

 

 

『吉田拓郎読本』から

加川良インタビュー抜粋

-拓郎さんの「加川良の手紙」という曲はどういう経緯でできたんですか。

 拓郎さんはエレックで爆発的に売れて、もうエレックにいる場合じゃないぞ、メジャーで勝負だということで、CBS・ソニーに移られた。大メジャーと契約するからには、それなりのお金が動くと同時に、その分、年間にシングル何枚、アルバム何枚という決め事があったんでしょう。それで、スタジオにミュージシャンを集めて、レコーディングに入った。ところが、いざ始めてみると、曲が足りなかった……私は、そういうことだったんじゃないかと思っています。
 拓郎さんが家に電話をしてきて言ったのは、簡単にいえば「余ってる曲ないかな」ということです。そう言われてもね、こっちも自分のことで精いっぱいだから(笑)、余っている曲なんてない。ただね、その頃、日本にはあまりなかったんですが、諸外国では手紙の文章をそのまま歌にするというのがよくあったんですよ。前略から始まって、最後のさよならまで、手紙の文面にそのままメロディ付けて曲にする。そういうことをやってみたいという気持ちが私のアイデアとしてあって、言葉だけは書いてあった。それが、あの歌詞ですね。
 それで拓郎さんからそんな電話があったときに、大変困ってる様子だったし、そんな声だった。相当切羽詰まってるみたいなんで、とりあえずその歌詞を持って六本木までいったんです。当時はファックスなんてありませんし、とにかく行ってしまおうというわけです。それで、CBS・ソニーのスタジオに入って、「こんな詞があります、メロディ付けられますかね?」とかなんとか言って拓郎さんに渡したら、その場でパパパっとあのメロディが付けられた。まあ、メロディというよりトーキングですけれどね。で、即レコーディング。そういう経緯でした。
 もしも私がメロディを付けたあとだったら、レコーディングはもっと手間がかかったかもしれません。それがなかったのが、かえってよかった。詞も、おおよその1番、2番という形にはなってましたしね。で、それを見た拓郎さんがささっと曲に仕上げた。おこがましいですけれど、拓郎さんが困っている様子だったので、当時住んでいた西荻から電車乗りついで六本木まで行ったわけです。それが「加川良の手紙」ができた顛末です。

-そうでしたか。拓郎さんは、ステージなどでは別の説明をしているようですが。

 ええ。加川良という男が家に遊びに来て、彼女に手紙を出したいと言った。ところが、あいつはちょっと恥ずかしがりやだから、直接出すことができない。それで、おれが歌にしてみた、そんな解説をされていたらしいですよ(笑)。
 今日の取材のために『元気です。』を探して、「加川良の手紙」をあらためて聴いてみました。そしたら、あの曲だけではなくて、他の曲でも他人の書いた詞が多いんですね。例えば岡本おさみさんの詞も入ってますしね。そういう人たちがまわりにいるのに、なぜ、私のような者に頼んできたんでしょうね。いまさらながら不思議ですねえ。

―拓郎さんが「曲ない?」と電話してこられたのは、そういう音楽的な、あるいはアーティスト同士のつながり的な関係が加川さんとの間にできていたからじゃないんですか。

 そういえば一度、拓郎さんが高円寺におられる頃かな、部屋に遊びに行った記憶があるんです。アパートだったかマンションだったか、とにかく拓郎さんがすごく売れ始めた頃のことです。『新譜ジャーナル』だったか『Guts』だったか、音楽雑誌で拓郎さんと対談を一度やってるんですね。食事しながら、拓郎さんと話をした。それが縁で、連絡を取り合うようになった記憶もあります。記憶がいまひとつなんですが、対談自体は、もしかしたら大阪にいた頃だったかもしれませんね。

―雑誌での対談のときは、拓郎さんについてどう感じましたか。

 ぼくは有名人に弱くてね(笑)、緊張してしゃべれなくなっちゃうんですよ。拓郎さんとの対談だって本当に舞い上がって、うまく話せませんでしたね。

-でも、その頃は加川さんも日の出の勢いだったでしょう?

 いや、拓郎さんの比ではありません。自分にとってそういうのは別の世界だと思ってたし、まだまだフォークーソングの意味も分からず、ボブ・ディランさえ知らなかったんですよ。それが、フォークの代表選手みたいな人と対談しても、何にも面白くないだろうなと思って会場のレストランに行った。そんな記憶があります。

―あの頃はエレックかURCかで、ファン層が分かれてました。

 私もURC一辺倒でしたよ(笑)。遠藤賢司さんや友部正人さん。皆さんURCでしたね。嫌いな言葉ですが、関西フォークっていうんですか、そっちに顔が向いてましたね。相対するものは何かあったでしょうね。そうそう、対談のときも、お互いに肩をいからせてるようなところがありましたね。つまり、私は西を背負っていってるような感じだった(笑)。なにくそ、東のもんに負けてたまるかって感じ。それでも帰りにはお互いの住所を交換して……。

-それがやがては「曲ないか?」という電話につながった。

 そういうことなんでしょうね。でもまあ、いろいろな形で縁はあったんですよね。私、大阪にいるときに『チャチャ・ヤング』という深夜放送やってたんですよ。

―MBS、毎日放送ですね。

 ええ。それで、拓郎さんは『パック・イン・ミュージック』でしたっけ、深夜放送をやられてて、同じ日にTBSと毎日放送が拓郎さんとぼくの番組を一緒にして一元放送をしたことがあるんです。

―そうでしたか。

 だから、二人のノリとでもいうんでしょうか、加川良と吉田拓郎でぶつかり合いさせたら面白い、そういう発想だったんでしょうね。番組では東京と大阪でお互いにしゃべったんですが、私にとっては拓郎さんはアイドルみたいなもんですからね、気を遣いましたよ。

-「加川良の手紙」が出てから、加川さんご自身には何か影響はありましたか。

 拓郎さんのファンの方が「加川良って誰なの」つて言ってくれるようになりましたね。これは本当に感謝しています。加川良を全く知らない人が、「あんたがあの歌の人?」って。私の詞を使っても、「作詞・加川良」というクレジットだけでもよかった。そこをあえて「加川良の手紙」というタイトルが付いた。そのおかげなんです。いまさらですが、なぜなんでしょうね。やっぱり何か、拓郎さんの方で気遣いをしてくださったということでしょう。正直なところ、『元気です。』はずいぶん売れましたから、お布施もたっぷりありました(笑)。

―これからの拓郎さんについて何か?

 私は、拓郎さんが一番やりたいことをなさるのなら、いつかどこかに観に行きたいなと思います。大きなコンサートじゃなくてね、せいぜい100人くらいのライブ。それをギターー本でやる。そんな拓郎さんをぜひ観てみたいですね。

(2008年3月10日、下北沢にて/聞き手=館野公二)

 

 

 

 

 

 

『吉田拓郎読本』 から
アルバム『元気です』アナログ盤解説


72年の1月に「結婚しようよ」42万枚、6月に「旅の宿」が70万枚とシングル・ヒットを飛ばした拓郎が、エレックからCBS・ソニーに移籍、ワンマン・レーベル「オデッセイ」を立ち上げ、満を持してリリースしたアルバム。オリコンでもチャート連続10週以上のナンバー1・ヒットとなった。

 アルバム全体で、石川鷹彦と松任谷正隆は、弦に鍵盤にと縦横無尽の活躍、そこに小原礼ら手練のセッションープレイヤー達がからんでタイトなサウンドが織り上げられた。前作の丁寧な手造り感との違いが、このアルバムにかける気迫にうかがえる。

 スタートの「春だったね」は明るい陽光のようなオルガンが炸裂している。拓郎のヴォーカルもメロディを追ってヒートアップし、思わず引き込まれる。マンドリンの「せんこう花火」では拓郎の繊細な顔がのぞく。「加川良の手紙」を聴いて感じるのは、加川の誠実さと拓郎のまじめさが不思議に呼応していることだ。「親切」はずっと続いている拓郎の苛立ちを突き抜けたサウンドで歌い倒す。

 「夏休み」は、アコギ、12弦、フレイリングのバンジョー、マンドリン、ドブロとアコースティックの弦楽器が、リズム隊の上にこれでもかと重層的に積み上げられて見事な音世界を作っている。「馬」は井口のベースだろうか、これも人を食ったような歌詞、馬は拓郎自身のカリカチュアか。「たどり着いたらいつも雨降り」はモップスの印象から分厚いバンド・サウンドを連想するが、ここでは右手の12弦と左手のバンジョー、背後にエレベとドラムスと少ない音でアコースティック的にまとまったサウンドだ。

 アナログ盤B面1曲目は切れのよいギターが飛び出す「高円寺」。広島がべったりと張り付いていた拓郎が高円寺を歌う。惚れた女性への言葉を、自分の中で自問自答するような不思議なコーラスだ。

 「リンゴ」、カッコよさではこのアルバムの白眉だろう。2本の超絶アゴギにベースが加わり、二分に満たない短さながら、強烈な印象を残す。岡本おさみは、もっと淡々としたイメージを持っていたが、この刃物のような楽曲の仕上がりに驚いたという。予想を超えた驚きをもたらすのがアーティストであり、面白さはそこから生まれる。「また会おう」は、シャウトの拓郎真骨頂、ファンキーなベース、ピアノ、ラストの「帰るのかい、また会おう!」が拓郎の台詞として伝わり、たまらない。

 「旅の宿」の先行したシングル・ヴァージョンは、マンドリンやドブロで、ほろ酔いの温泉宿の夜の楽しさが表現されていた。それに比べて、荒さの残る弾き語りの芯の通った歌声は拓郎らしく、この頃のコンサートでのスタイルに近いアレンジ。一人でやるんだという思いの強さも伝わってくる。

 「祭のあと」は、荒涼とした風景を、ややためらいがちに距離を置いて歌いあげる。この歌の強い無頼の面影を、最後の「ガラスの言葉」が中和してアルバムは終わる。及川恒平の中性的、女性的な詩を、拓郎はぐぐっと手繰り寄せて歌う。

 

 

 

 

 

『吉田拓郎』地球音楽ライブラリー

アルバム・ガイド 『元気です』

文 田家秀樹


「そう、僕はいいかげんにしたいのです。もう、うんざりなのです。“帰れ!”なんて云ってはいけない。云った人も、云われた人も、もうその瞬間から敵味方。そんな馬鹿みたいな事、やっぱりいけない。そんな貧しい発想で僕達は接触し合っていたのです。だからもうフォークなんてマッピラと思ったりしているのです」。CDで再発されたものにも、手書きの彼自身のライナーが載っている。「僕はやっぱり元気なのです」という書き出しで始まる900字ほどの文章には、“フォーク・ソング”というジャンルへの幻滅と、“自分の歌”に対しての心境。一種の決意表明めいた心情が“ですまず調”で記されている。日付は1972年6月24日となっている。70年代の日本の音楽シーンに決定的な変化をひき起こした歴史的アルバムがこれだ。エレックレコードからCBS・ソニーに移籍しだメジャー第1作。オデッセイ・レーベルという彼自身のレーベルの第1作でもある。

彼が自ら書いているように、このアルバムには”ねばならない”が感じられない。“こうでなければいけない”という定型や常識、規制や枠組に捕らわれない“彼自身の歌”。そんな自由奔放なのびやかさやおおらかさ。歌いたいことをそのまま歌にする。そんなアーティストのアルバムは、それまでの歌謡界や60年代のGS、ポップス、70年代初期の社会派フォークの中にも存在しなかった。『せんこう花火』や『加川良の手紙』の“ですます調”の親しみやすさ。『夏休み』は歌謡曲・流行歌というジャンルに入らない新しい“唱歌”とも言える、ほのぼのとしたなつかしさ。『親切』『加川良の手紙』の個人的な心情。曲のタイプや長さも一色ではない。『春だったね』のイントロのはじけ方やたたみかけるような言葉のビート感は、“フォークというジャンルには到底収まり切れず、“ファンクと呼んだほうがいいだろう。『高円寺』や『リンゴ』も、フォークというより、フォーク・ブルースに近いだろう。『たどり着いたらいつも雨降り』はグループ・サウンズの中でもニュー・ロックに近かったモップスが、シングル・カットしたものだ。大ヒットの『旅の宿』、スタンダードの『祭りのあと』、いずれもこのアルバムの要となっている。石川鷹彦、松任谷正隆というタイプの違う2人のアレンジャー。林立夫、後藤次利、小原礼というセッション・プレイヤーと、内山修、田口清、常富喜雄の“猫”、井口よしのり、田辺和博の“ミニ・バンド”という“身内”とのバランスも興味深い。それにしても、このアルバムに現在の奥田民生と重ね合わせる若い聴き手も多いのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

週刊現代

2020年8月8・16日合併号

 1枚のレコードがある、モノクロのジャケット写真に映し出されるのは、ひとりの若い男の横顔。その鋭い眼光は。見る者をドキリとさせる。顔。その鋭い眼光は、見る者をドキリとさせる。あさま山荘事件が起き、沖縄が日本に返還された172年。学生運動が退潮し、次の時代への期待と不安が入り混じっていたこの年、吉田拓郎の最高傑作『元気です。』が生み出された。アルバムの発売は7年。第1次田中角栄内閣が発足して2週間後のことだった。この作品は瞬く間に話題をさらい、1ヵ月の間に40万枚もの売り上げを記録した、あの夏、拓郎の『元気です。』を手にした若者たちは取り憑かれたようにアルバムを聞き、没入した。

 さあ、レコードに針を落とそう。1曲目の『春だったね』がかかれば、その瞬間から拓郎の世界に引き込まれる。漫画家の江口寿史さん(64歳)が語る。「『元気です。』との出会いがなければ、今の僕はありません、あのレコードは、僕の人生を決定づけてしまいました。初めて『元気です。』を聞いたのは16歳の夏、高校2年生でした。僕は170年に発売されたデビュー曲『イメージの詩』から拓郎さんの大ファンで、新作が出たと聞いて千葉の野田市内にあったレコード屋へと駆け込みました。胸の高鳴るまま、『春だったね』を聞きました。イントロでハーモニカとオルガンか嗚ったとき、今までの吉田拓郎じゃない、そう直感したんです」。今では離れ離れになってしまった恋人、君はいつか、僕のことを忘れるだろう。それでも僕は君のことを忘れられない。『春だったね』で、「僕」は別れた恋人へ思いの丈を込め、手紙を綴る。 《あゝ僕の時計はあの時のまま風に吹きあげられたほこりの中 二人の声も消えてしまった あゝあれは春だったね》 ふたりが深く愛し合った日はもう戻らない。サビの畳みかけるような拓郎の歌いぶりに、胸が締めつけられる。「僕は『元気です。』を何度も何度も、繰り返し聞きました。吉田拓郎になりたくて、髪型も服装も、すべてを真似しました、完全に、拓郎さんにかぶれてしまったんです。拓郎さんの歌はメロディも平易で、スッと耳に入ってくる。自分にもできる気がする、そう感じました。僕は小遺いを貯めて、5500円の名もないギターを買いました。それからというもの、寝ても覚めても『拓郎漬け』です、ところが、いくら練習をしても拓郎さんに近づけない。あの独特な節回しはどうしても再現できないんです。何百、何千回と拓郎さんの歌をコピーした末のことでした。ああ、人は結局、自分以外の人間にはなれないんだ、そう気付いたんです。いくら真似をしたって、憧れの人にはなれない。それならば、僕でなければできないものを見つけて、その道を突き進もう、そう決めました。それが僕にとっての、漫画だったのです。拓郎さんは『元気です。』を通して、自分の思うように生きろと強く背中を押してくれました」(江口さん)

 『春たったね』が終われば、『せんこう花火』に『加川良の手紙』が続く、そして流れ出すのは、代表曲『夏休み』だ。〈麦わら帽子はもうきえた たんぼの蛙は もうきえた〉 この歌を聞くと、蝉時雨の中、もくもくと人道雲が立ち昇る「日本の夏」が鮮明に浮かび上がる、絵日記に花火、西瓜にひまわり・・・、楽しかった夏は、もう終わってしまった、夏の終わりに誰もが抱く、あの寂しさが詰め込まれている。この歌には、拓郎白身も相当な思い入れかある。前の年に出したライブ盤。よしだたくろう・オン・ステージ ともだち』に収録されている同曲を、『元気です。』で新たに録音し直したほどだ。

 元「かぐや姫」メンバーで、拓郎の友人である山田パンダさん(75歳)はこう回想する。「当時、拓郎とは原宿にあるペニーレイン』(74年、拓郎はこの店の名を冠した名曲『ペニーレインでバーボン』を発表している)でよく飲んでいたんです。アルバムが話題になったときは、やっぱり1曲目は。春だったね』がいいよな、という話もしました。当時、拓郎とかぐや姫で全国を回ることが多く、僕はいつもオーディエンスのひとりとして彼をステージの袖で見ていたんです。ライブで『夏休み』が演奏されるときの、客席との一体感を肌で感じていました、だからこそ、僕も新しいアルバムに『夏休み』が入ると嬉しいと拓郎に伝えました」。『夏休み』でしんみりしたかと思えば、次曲の『馬』では雰囲気が一変。疾走する馬のように、軒快な旋律が奏でられる。

 その勢いのままA面の最後を飾るのが、『たどり着いたらいつも雨降り』だ。漫画家の柴門ふみさん(63歳)が振り返る。「拓郎さんを知ったのは、毎号買っていた音楽雑誌『新譜ジャーナル』がきっかけです。そこでギターを抱えて歌う拓郎さんが紹介されていました。それまでのフォークといえば、岡林信康さんなど、反戦歌や社会的なメッセージを含んだ歌が主流でした。ところが拓郎さんは童顔も相まって、他のフォークシンガーとは違う存在感を放っていたんです。私はそこに惹きつけられました。『元気です。』も、発売された7月に買いました。当時、レコードは3000円。高校1年生には高い買い物です。それでも、拓郎さんのレコードは絶対に手に入れたかったんです」。当時、柴門さんの家では晩御飯を食べ終わってから1時間ほど、応接間にあるステレオで好きなレコードをかけられる「音楽の時間」があった。そこで拓郎『元気です。』を聞いていたという。「『たどり着いたらいつも雨降り』は、アルバムの中でも特にホップな曲調です。ですが、歌詞はやけにやさぐれています。《疲れ果てていることは誰にも隠せはしないだろう ところが俺らは何のためにこんなに疲れてしまったのか》。このなんともぶっきらぼうな歌いっぷりが高校生ながらに心に響いたんです。それから20代、30代と年齢を重ねても、折に触れてあの歌を聞きました。すると、大人になるにつれ、サビの終わりの くそれでもやっぱり考えてしまうあゝ このけだるさは何だ 〉というフレーズが沁みるようになってきました。仕事が思うようにいかず行き詰まってしまうとき、あのメロディが浮かびます。人生なんて思い通りにならないんだ。腐っていたって仕方ない。とにかく走り続けよう。そう励まされます」

 今となっては拓郎の曲は、日本中のスナックで歌われている。だが当時、「昔ながら」のフォークファンにとって拓郎は異物として受け止められた。反体制の立場も取らず、政治的なメッセージもない。ただただ薄っぺらい曲を歌っているだけだ。拓郎は「軟弱者だ」とバッシングに哂された。『元気です。』が発売される3ヵ月前、4月22日のこと。何人もの歌手が日本武道館に集った「フォークオールスター夢の競演」で拓郎がステージに立った瞬間、客席から「帰れ!」と罵声が飛び交った。ヒートアップした客は、ステージにビール瓶まで投げつけた。なぜ、こんなにも自分は否定されるのか。拓郎は傷つき、複雑な思いを抱えていた。それでも、自分の信じた道を進むしかない。拓郎はそんな悲壮な思いを、『元気です。』に同封した1枚のライナーノーツに書き連ねた。「僕はやっぱり元気なのです」。拓郎はライナーノーツの書き出しで、アルバムのタイトルに絡ませながらそう宣言する。どんな逆境にも立ち向かってやる。そんな決意表明とも受け取れる。拓郎は「(フォークは)より自由であった筈のものなのに。でも、それでも人は云うのです、「フオークーソングは自由の歌である』などと。自由の顔をした不自由な籠の鳥です」と、凝り固まった考えの人々を喝破する。そして「もういいかげんにしよう。僕の歌は僕の歌、君の歌は君の歌」と強く言い切った。批判の嵐の中、岐路に立たされていた拓郎が綴った魂の叫び。『元気です。』は他の誰でもない、拓郎白身にとっても人生を決める1枚になった。

 アルバムに戻ろう。レコードを裏返してB面に入れば『高円寺』のイントロで激しいギターが聞こえてくる。心臓をえぐるようなド迫力の音に痺れる。この歌に影響されて中央線の高円寺や荻窪、阿佐ヶ谷に住み着いた若者は数知れない。

 そしていよいよアルバムの白眉、『旅の宿』だ。舞台はとある温泉の宿。温かな湯に浸かった恋人たちは食事を済ませ、ふたりでしっとりと日本酒を飲んでいる。ふと外を見やれば、上弦の月が浮かんでいる。浴衣を着た「きみ」は尾花の簪をつけ、熱燗徳利の酋をつかむ。「もう一杯いかが?」。そんな仕草が、妙に色っぽい。大の拓郎ファンだというコラムニストの堀井憲一郎氏(62歳)が語る。「『旅の宿』は、当時、まったく新しい恋の歌として響きました。それまでのフォークや歌謡曲の世界では、恋愛の歌といえば失恋をテーマにしたものが主流でした。生々しい心の傷が描かれていなければ恋の歌じゃない。そんな雰囲気さえありました。ところが、『旅の宿』はそんな風潮とは対極の世界観です。この歌では、愛し合う恋人同士の姿が描かれている。そして、当時の若者がまったく関心を抱いていなかった温泉という日本情緒をとりこんだのも、新鮮でした。独りよがりにならない普遍的な情緒を歌ったからこそ、今でも聞く人の胸を強く打つのでしょう」

 42分間の旅も、終わりに近づいてきた。アルバムの最後を締めくくるのは、『ガラスの言葉』だ。この歌を作詞したフォークシンガー・及川恒平さん(71歳)が語る。 「当時は演劇や音楽、美術の垣根がなく表現者の交流はあたり前。拓郎さんとも共演したり、高円寺の家に遊びに行きました。そんなある日、拓郎さんから『詞を書いてくれよ』と頼まれたんです。そうして生まれたのが『ガラスの言葉』でした。詞を渡したとき、拓郎さんは『恒平の詞はワカラン』と言いました。ところが出来上がってきたのは、ご存知のとおりの名曲でした。実は、この歌には《ミルキーウェイに花がほら、あんなにいっぱいほら揺れてるよ》という詞があるんですが、拓郎さんは《ミルクウェイ》と歌っているんです。《ミルキーウェイ》は『天の川』のこと。《ミルクウェイ》じゃ『牛乳の道』です。それを指摘したのですが、拓郎さんは『いいんだよ、これで』と言い、ミルキーウェイをミルクウェイと歌ったことの弁解はありませんでした。僕も仕方がないと思い、そのままにしました」 拓郎は歌詞の字面が正しいか否かより、もっと深いところにある「音の響き」を優先させた。その結果、この歌はより自然に心の中に沁み込む曲に仕上がった。『ガラスの言葉』は、まさに吉田拓郎という音楽家の粋が凝縮された歌なのだ。

72年に発売された1枚のレコードは、若者たちの青春をすべて変えてしまった。拓郎の歌に夢中になったあの夏は、きっと死ぬまで忘れることはないだろう。

 

 

 

加川良と吉田拓郎

 

 

 

 

ブログ後記

『フォークソングの東京』という本があります。フォークソングやロックにまつわる、東京各地のエピソードが綴られています。筆者はフリー編集者の金澤信幸氏で、自分と同年代のこの方もやはり吉田拓郎のファンであったという。ここでは同著から、「高円寺」の一文を引用させてもらいます。

金澤氏がそうであるように、自分にとっても高円寺はやはり聖地でした。お恥ずかしい話、二十代のときの東京出張の際には、わざわざ高円寺に泊まったりもしたのですが、何の変哲もないただの雑多な街であり、駅前で呆然と立ちすくんだ記憶があります。それでもやはり行ってよかったと思う。

 

 

『フォークソングの東京』から

金澤信幸 著

 

 高円寺といえば現在では、ねじめ正一の直木賞受賞作『高円寺純情商店街』や阿波踊りなどで、その名前は知られているが、70年代初頭、知名度は決して高くはなかった。北区王子在住の高校生だった私は、高円寺には行ったことはなかったし、どんなイメージも浮かばなかった。その名前を知っていたかどうかも自信がない。これは私だけでなく、おそらく、高円寺周辺以外の人間にとって大きな違いはなかったのではないか?ましてや地方の人間にとっては、高円寺などまったく知らなかった人がほとんどだろう。

 その高円寺の名前を、ある世代にとって全国的な知名度にしたのが吉田拓郎の「高円寺」だ。1972年7月21日発売のアルバム『元気です。』に収録されていたこの曲で、初めて高円寺を知った人は少なくないはずだ。例えば、京都在住だったみうらじゆん。

 高円寺の存在は京都にいた高校時代から知っていた。それは僕がフォーク・ブーム吹き荒れる真っ只中に青春時代を過ごしたからである。吉田拓郎が大ヒット・アルバム『元気です』の中で、「高円寺」という歌を歌っていたからである。(略)心の中はいつか東京に出る事になったら、高円寺に住みたいと思ってい
たんだ。(『青春の正体』)


 みうらは、この言葉どおり、上京してから高円寺に住んでいる。そして、もう一人、書評家の岡崎武志。

 中央線沿線の中野、高円寺、阿佐ヶ谷、吉祥寺といった街が、フォーク伝説の舞台となり、各駅名とともに記憶された。吉田拓郎の「高円寺」は、「キミはどこに住んでいたのですか? 高円寺じゃないよね」と否定されていれるにも関わらずタイトルとして強烈で、かつて拓郎が住んだこの街の住人になることが、上京する際の大きな目的となる。これは実現できた。(『ここが私の東京』)。

 彼らだけでなく、拓郎の「高円寺」を聴いて、高円寺に住んだ人は少なくないはずだ。当時、吉田拓郎は実際に高円寺に住んでいた。『元気です。』の1枚前のアルバム『人間なんて』のジャケットに、拓郎がマンションの階段に座っている写真が使われているのだが、これが高円寺のマンションである。


 TBSテレビ『情熱大陸』99年6月20日の放送で、拓郎が上京して以来住んだ思い出の場所をたどっていたが、この高円寺のマンションは「初めて一人暮らしをした場所」として紹介されていた。マンションの住所は杉並区堀ノ内であり、駅はJR中央線高円寺より東京メトロ丸ノ内線新高円寺のほうが近い。拓郎は、この堀ノ内のマンションの次に高円寺北に移っている。「高円寺」で歌われているのが堀ノ内なのか、高円寺北なのかはわからないが、『人間なんて』に収録されている「どうしてこんなに悲しいんだろう」について拓郎は、「高円寺に住んでる頃に作った曲です。(略)妙法寺っていう寺の横に住んでて」(『AERA in FOLK』)と語っている。

 

 

さて、拙文は加川良の話で始めました。締めくくりも加川の話で終わるのが「筋」かもしれません。というわけで、資料が他にないか、ネットであたってみた。するとYouTubeで、拓郎が加川の代表作『教訓Ⅰ』を歌っているのを見つけました。そしてこれがなかなかよかった。「本家」のシングル盤もリアルタイムで買って聴いていたのですが、正直、さほど入れ込むほどのことはなかった。一方、拓郎のはスッと入ってきた。やっぱり拓郎はいい。拙文をここまで読んでいただいた方なら、このカバーはすでにご存じのことでしょうが、リンクを貼っておきます。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

 

 

教訓Ⅰby 吉田拓郎