財津和夫ヒストリーⅠ 誕生からチューリップへの軌跡   『心の旅』『青春の影』創作の意外な舞台裏 | Kou

Kou

音楽雑感と読書感想を主に、初老の日々に徒然に。
ブログタイトル『氷雨月のスケッチ』は、はっぴいえんどの同名曲から拝借しました。

2月7日、NHKで、財津和夫のドキュメンタリー番組が放送されました。10年ぶりとなる新曲制作と、コロナ禍で臨んだオンラインライブを軸に、財津和夫のここ三年間の日々を記録したものです。

このブログでは、主に音楽のことを書いています。若いころに聴いていた、吉田拓郎やはっぴいえんどなどをです。しかし同じ時期のバンドである、財津和夫率いるチューリップには関心がありませんでした。何やら軽い、グループ・サウンズ的なイメージがあったからです。

それでも最初のヒット曲『心の旅』は、なかなかやるじゃないか、と思った。イントロなしのボーカル始まりは、彼らが目指していたビートルズそのものだったわけで、その匂いをおおいに感じたものです。そして『青春の影』や『サボテンの花』もなかなか味わい深い歌です。歳を重ねた財津和夫のソロは、より聴かせる力があります。

かねがねそんなことを感じていたところの、番組の放送でした。そこでこれを機に、財津和夫の誕生から今日に至るまでの足跡をたどってみることにしました。ミュージシャンのあるあるとして、彼も世に出るまでは苦労の連続だったようです。福岡で生まれ育ち、高校生のときにビートルズに感化され音楽活動を始めたのですが、上京に至るまで、そして東京へ出てきてからも紆余曲折を重ねています。

初のヒットとなった『心の旅』は、財津にとっては不本意な作品となりました。彼の代表作となった『青春の影』も、簡単にはリリースされなかったという。これらの知られざるエピソードはとても興味深いもので、その誕生からチューリップまでを、「ヒストリーⅠ」としてまとめてみました。

続く「ヒストリーⅡ」は一気に時間が飛び、上記番組の文字起こしとなります。先日73歳になった財津は、近年の心身を蝕む病魔との闘いを告白しています。音楽家として引退の危機にも直面し、苦悩の日々を送っていたという。テキスト化にあたっては、それらの財津の言葉を忠実に再現しました。

つまり拙文の前半は若き日の財津和夫を、後半は老境の帳に立つ財津和夫を描いたということになります。その多くのファンの方々にお読みいただければ、さいわいです。



参考および引用した資料
『謎の財津和夫』
『財津和夫の心のものさし―対談集』
『ぼくの法螺』

『心の旅、永遠に』

『遅刻した少年―続 ぼくの法螺』
『もう笑わなくちゃ―財津和夫エッセイ集』
『こんなに近くにいるのに』
『ペンとカメラの へたのよこず記』
『照和』伝説 富沢一誠 
『文藝春秋』2010年8月号

 

 

 

『青春の影』を歌う

財津和夫

 

 

財津和夫は、1948年2月19日、福岡県博多の箱崎で生まれた。全員男の五人兄弟の末っ子であったが、長兄と次兄は、和夫が生まれる前に夭逝している。中学生のころ和夫が夜机に向かって勉強していると、「早く寝なさい」と両親が言う。それからも勉強するたび、同じ言葉はくりかえされた。無理をしては体をこわすからとの心配からだった。相次いでおさな子に先立たれた絶望感が、何年が過ぎようとふたりの胸にあった。

両親は熊本の生まれだが、朝鮮半島からの引揚者だった。子供のなかで、和夫だけが日本で生まれた。財津家は朝鮮では、地主として羽振りをきかせていたという。しかし敗戦とともに日本に引き揚げたときは無一文であり、福岡の親戚を頼っての帰国となった。やがて開墾を条件に、玄界灘に近い土地が与えられ、父は果樹園を始めた。米軍基地の傍らにあった果樹園は数年後、競輪場建設のために買収される。代償として、競輪場のなかに店を開く権利が与えられた。

父は米軍のキャンプでのブローカーを生業とする一方、店は母が調理師の免許をとって、食堂を営むことになった。母は音楽が好きだった。女学校を卒業後は音楽学校へ進みたかった。しかし時代が音楽を許さず、母は17歳で嫁に出されてしまう。のちにテレビでビートルズが紹介されたとき、和夫を興奮気味に居間に呼んだのは母だった。

食堂のある競輪場では、いつもマーチが流れていた。おさない和夫は、そのツービートのリズムを子守歌がわりに育ち、自然と音楽が好きになっていった。やがてラジオから流れてきた、ポール・アンカなどのアメリカン・ポップスに触れ、虜になった。子供心に、東京に出て音楽業界に入り、レコーディングなどに携わりたいと思うようになる。楽器を手にしたのは、中学3年のとき。兄がクラシック・ギターを買ってくれた。まもなくラジオから流れてきたのがビートルズだった。だがそのときは興味を持つこともなく、むしろ耳障りな音だと思った。

進んだ香椎高校では、のちにチューリップを組むことになる、吉田彰とクラスメートとなった。ある日吉田が映画に誘ってきた。ビートルズ主演の『ヤァ!ヤァ!ヤァ!』である。館内は女の子で満員だ。うまくいけば「触れる」かもしれない。そんな不純な動機から映画館に行った。だがここで和夫の価値観がひっくりかえることになる。スクリーンには上品で端正なビートルズがいた。メロディにファルセットを多用し、メインボーカルはいなくても、四人がそれぞれにリードをとっていた。全員がたくみにフル回転する無駄のないビートルズ・スタイルは、高度な緊張感も生みだしていた。

映画が終わってからも、和夫の頭のなかには『シー・ラヴズ・ユー』が鳴り響いていた。何の教育も実績もなく、突然現れた若者たちが、大英帝国の由緒ある大人たちをキリキリ舞いさせている。もしかしたら自分にもできるのではと、本気で思いこんだ。吉田の家は裕福でレコードがたくさんある。和夫は以降ヒマさえあれば吉田の家に行き、ビートルズを聴き、楽譜集から一生懸命コピーをした。和夫の青春の始まりだった。

高校では、ブラスバンド同好会に所属していた。しかしビートルズに感化されてからは、生ギターで『ノルウェイの森』を弾いたり、拙いながらも作曲を始めている。そしてバンドを組み、予餞会などでビートルズを演った。これが受けた。授業中もビートルズの楽譜に熱中し、教室のうしろに立たされた。

3年で進路を決める際は、さしたる理由もなく、大学進学を希望した。しかし成績はクラスでビリから二番目だった。おまけに兄たちも大学に進んでいたため、家にカネはない。進学したいとはとても言いだせなかった。営んでいた食堂も、競輪の廃止に伴い廃業していた。しかしモラトリアム願望から、受験もせずに浪人と称し、予備校に籍を置くバイト暮らしに突入した。末っ子ゆえ、わがままも許された。音楽の道へ進むという確固たる意志だけがある、バイトを転々とする日々が始まった。

そんなある日、東京の大学に入った女友達から、ビートルズの日本公演チケットが送られてきた。ライオン歯磨きの懸賞で当たったという。財津は狂喜乱舞した。あのビートルズが生で聴ける。夢じゃないか。チケットを握りしめ、兄に交通費を借りて東京への夜行列車に乗った。しかし武道館では肝心のビートルズよりも、となりの席の男子が感激の涙を流していることに驚いた。九州男子たるもの、泣くことなぞ一生に一度か二度のことである。音楽はこんなに人を感動させるのか。帰りの夜行に乗り込んだ財津は、バンドをやりたいと切実に思うようになった。

そのときのバイト先はパン工場。パンを焼く鉄板を磨く作業だった。一緒に仕事をする正社員たちは中卒で入っている。仕事は厳しく、手を抜いていると見回り役が、正社員たちを棒で殴っていた。財津は、あやふやな生き方をしている自分が恥ずかしくなった。彼らはこれからもずっと、このまま頑張ってゆく。自分もやらねば。甘えてなんかいられない。

季節は秋になっていた。遅ればせながら勉強を始め、西南学院大学に合格する。受験料と入学金は、吉田の家から借りた。吉田は現役で同じ大学に入っていた。彼がいなかったら、財津は大学生になれなった。

しかし大学に入ったのは勉強が目的ではなく、音楽のためだ。財津はキャンパスで誰彼かまわず声をかけた。相手が音楽に興味があり、ましてや楽器が弾けるとなると、「一緒にやろうよ」を連発した。やがて財津は「HBF」というフォーク・グループから、ベーシストとして誘われる。メンバーは山本良樹、田中孝二のふたりだった。HBFは財津にとって初めてのグループとなった。しかしこのバンドはフォーク系だ。いつかビートルズのようなグループをつくりたい。この時期の財津はレコード店でバイトしながら、ピアノも始めている。

財津は新しいバンドを自らつくることにした。吉田を誘い、大学二年の夏、田中孝二、末広信幸の四人で「フォー・シンガーズ」を組む。そして夏休みの間、毎日ぶっ続けで練習を重ねた。新学期が始まっても授業そっちのけで練習に打ち込んだ。個々のテクニックに磨きをかけ、ハーモニーも鋭さが増してきた。

フォー・シンガーズはデパートの屋上で開かれた、福岡のアマチュアバンドが一堂に会するフォーク・ソング・フェスティバルに参加。このときの演奏が、福岡のアマチュア界で評判を呼ぶようになる。しかし財津は、すでに福岡という土俵だけでは満足出来なくなっていた。

69年、ヤマハの第三回ライト・ミュージック・コンテストに出たフォー・シンガーズは、福岡県大会を勝ち進み、全国大会に臨むことになった。しかし出場していたバンドには、『赤い鳥』と『オフコース』がいた。群を抜いた彼らの練習を見て、「俺たちは三位だ」と嘆いていたら、結果は六位だった。

全国レベルを痛感した財津は、オリジナルで勝負できるバンドを目指し、フォー・シンガーズを解散する。いろんな大学のグループに声をかけ、実力派バンドにいた宗田慎二を引き抜く。そのためJ・Qというそのバンドは解散を余儀なくされた。

こうして、財津和夫、宗田慎二、吉田彰、末広信幸からなる、福岡のトップミュージシャンを集めて結成されたのが、「チューリップ」だった。この名は、ビートルズのアップル・レーベルにちなんで付けられた。実力者をあつめたチューリップは、まだ福岡限定ながら群を抜いた存在となる。

するとビートルズの大ファンという資産家が、自費制作レコード資金を提供してくれるという。財津らは奇特なこの厚志を受け、そして71年、九州朝日放送スタジオで四曲をレコーディング。四千枚がプレスされ、福岡限定ながら発売された。また地元ラジオでもオンエアされ、チューリップはローカル限定ながら知名度は一気にアップ、人気者になった。

博多には「照和」というライブハウスがあり、チューリップはこのステージに立つ喜びも味わうようになる。ギャラはステージの幕間に出るソーダ水と食パン二切れだけだった。それでも、ステージで歌える楽しさに勝る贅沢はなかった。

自主制作盤のヒットにより、いくつかのレコード会社から誘いが来るようになる。だがすべてマイナーな会社だった。財津は安売りはしたくなかった。宗田の兄に、東芝レコードに勤める知り合いがいた。その紹介で、チューリップは邦楽制作部の新田和長ディレクターに認められ、念願のデビューが叶うこととなった。

財津らは勇躍上京、『私の小さな人生』とレコーディングした。しかし見通しは明るくなかった。身元を預かるプロダクションも決まっていない。また宗田は、財津の才能に嫉妬していた。プロになっても、財津の陰の存在で過ごすことは耐えられないと、チューリップをやめることにした。末広も就職の道を選ぶことになった。『私の小さな人生』をレコーディングした翌日のことである。

バンドに残ったのは、財津と吉田だけ。念願の全国レベルのレコーディングをおこなったのに、その直後、チューリップは解散状態に陥ってしまったのだ。財津は焦った。契約上、『私の小さな人生』はこんな状況下でも発売される。それまでに新しいメンバーを補充しなければ。財津はコンサートや照和で知り合っていた、安部俊幸、上田雅利、姫野達也を誘う。彼らはそれぞれ他のバンドに属していた。財津は「俺についてくれば、将来を保証する」と三人を口説いた。

いつのまにか財津は、福岡アマチュア界にとって神様のような存在となっていた。神様の言うことは絶対だ。結果、安部と姫野らのいたバンドはつぶれてしまう。だがチューリップはレコーディングしたオリジナルメンバーではない。発売された『私の小さな人生』のジャケット写真は、旧メンバーのものである。財津は、宗田と末広の顔の上にサインをしてごまかした。

再出発を期すべく、新生チューリップの猛練習が始まった。練習場所に、閉店後の『照和』を使わせてもらった。午後11時から朝の7時まで、毎夜の猛練習に励んだ。その甲斐あり、ひと月もしないうちに独自のサウンドができあがる。財津の考えうる最強のメンバーとあって上達は早かった。そして照和をベースに、他のライブハウスやテレビ西日本や九州朝日放送などの番組に出演するかたわら、他のグループと自主コンサートも開いた。こうして生まれ変わったチューリップも、まだ福岡限定ながら、圧倒的な人気を誇るようになる。

この時期財津は、『魔法の黄色い靴』をつくっている。誰かに押されるように、メロディが頭に浮かんできたという。1971年の秋のことである。11月、財津は東京で売り込みすべく、再び新田のもとへ行った。財津のカバンには、家庭用のテープデッキで録音した『魔法の黄色い靴』のデモ・テープが入っていた。聴いた新田は、すぐさまGOサインを出す。上司と相談せずの即決だった。

当時、地方からの上京は、簡単な話ではない。財津には新田に会いに行く旅費もなかったが、旅費を工面してくれた人がいた。音楽に関心がある人ではなかのに、一肌脱いでくれた。チューリップが世に出ることができたのは、この方からお借りした飛行機代のおかげだった。財津はのちに返そうと住まいを探したが見つからなかった。

チューリップが東京に出てきたのは翌72年2月のこと。全員が長髪でヨレヨレの黒いレインコートを着たヒッピー・スタイル。東芝の一部のレコード関係者は、チューリップという名から、女の子のグループを想像していた。だがみな頬がそげ、やつれていた。飢えが顔ににじみでていた。全員、無一文だった。本当に一円も持っていなかった。自分たちが理想としている音楽だけを唯一の頼りに、捨て身の一発勝負での上京だった。

繰り返しになるが、このころ九州から東京へ行くには、いま日本からニューヨークへ行くよりも、もっと大きな決意を必要とした。新幹線はまだ大阪までで、福岡へは来ていなかった。飛行機はあったが、自費で乗れるはずもなかった。しかし財津らメンバーは飛行機に乗った。航空券代は売れたときに支払うという条件で、所属することになる事務所から借りた。これに加え、五人が一緒に暮らすアパート代など、すべて借金だった。その後の生活費も前借した。背水の陣である。

その所属事務所は、シンコー・ミュージックという。代表者は草野昌一で、日本の音楽出版ビジネスの先駆者である。草野は「漣健児」名義で訳詞家としても活動していて、『可愛いベイビー』や『ヴァケーション』など、50年代、60年代のアメリカン・ポップスを四百曲以上を訳詞していた。

南青山の2DKのアパートでの、財津らの共同生活が始まった。南青山といえば聞こえはいいが、当時はまだ表参道も原宿も、夜になると真っ暗だった。六畳と四畳半とキッチンには、ムカデはがはいずりまわり、ヘビも出た。五人の男の、雑魚寝と自炊の生活が始まった。鼻つき合わせる日々はつらかった。

練習は、神田にあったヤマハのリハーサルスタジオに通った。いつか絶対にヒットするという自身だけはあった。そのため完璧を目指した。ピリピリと張りつめた、ささいななミスも許さない、お互いが認め合うよりは、批判を繰り返した。

こうしてチューリップは、デビューシングル『魔法の黄色い靴』でデビュー。ビートルズ的で、業界内での評価は非常に高かった。しかし売れたのは地元福岡だけ。他ではまったく売れなかった。当時は吉田拓郎に代表されるフォークの全盛期で、ビートルズに影響されたチューリップサウンドは異色だった。フォークコンサートに出ればロックじゃないかと、ロックコンサートに出ればフォークだと言われた。地味なライブ活動でも、あつまった客のほとんどは、友人や仕事関係者ばかりだった。

初めてのラジオ出演は、五十人ほどの客のいるスタジオだった。一曲目のビートルズナンバーを歌い終えた。客席からの反応はない。客間の喋りで財津は笑いをとろうと、あろうことか「う、う、うんこ」と口走ってしまう。静まり返る客席。福岡のライブハウスでは受けていたMCも、東京ではまったく受けなくなっていた。慣れない標準語が、財津らの軽妙なトークを殺していた。

9月に発売されたセカンド・シングル『一人の部屋』も斬新な詞とサウンドだった。だが前作以上に苦戦した。業界受けはしたものの、ヒットはしなかった。辛い。自信もぐらついた。しかし故郷を後にしたからには、錦を飾るまで帰ることはできない。財津には同い年の彼女がいたのだが、福岡を離れるときに別れていた。大学も中退していた。つらい別離を思い出しながら、ひたすら一生懸命に曲を作った。それが『心の旅』だった。


心の旅

チューリップは草野から、「三枚目も売れなかったら福岡に帰すぞ」と言い渡されていた。草野はハッパをかけたのだが、財津はその言葉を真剣に受けとめ、背水の陣で臨んだのが『心の旅』だった。ヒットが大命題である。難解さをは避け、わかりやすいメロディーを最大限心がけた。しかしそれは決して妥協ではなかった。ビートルズも初期の作品はシンプルで明快だが、それを安易という人はいない。今聴いても古さがない。財津も同じ姿勢の曲作りを目指した。

「ドレミソラシド」。このメロディは『心の旅』のメロディである。「ドレミファソラシド」は一般的にもっとも美しいとされる音階であるが、『心の旅』はここから「ファ」を抜いた。わかりやすいメロディにストレートに訴えかけた。インパクトは強く、東芝レコードは超強力盤としてプロモーションすることを決める。1973年の4月に発売されたシングル盤は、5か月後の9月、チャート1位にあがった。チューリップとしては、土俵際の起死回生の曲となった。

この歌の特徴は、レコードに針を落とした瞬間、イントロもなくいきなり飛び込んでくる。「あ~だから今夜だけは君を抱いていたい」というボーカルは、『シー・ラブズ・ユー』や『プリーズ・プリーズ・ミー』など、ビートルズを初めて聴いた瞬間に通じるインパクトがあった。曲の構成はシンプルで、「あ~だから」で始まるパートと、「旅立つ僕の」のパートの2つのメロディーだけでできている、聴く者は訴えられるような熱いものを感ずることになる。

しかし実は当初はサビ始まりではなかった。「旅立つ僕の心を知っていたのか」のAメロから始まり、「あ~だから今夜だけは」のBメロに続く一般的な構成だった。ところが演奏のレコーディング当日の朝、草野から突然電話が入る。「サビから始めたらどうか」と言う。プロデューサーをつとめていた新田は財津と相談し、急遽構成を変えて録音することにした。

曲も、魅力を最大限引き出す努力をした。通常のロックではリズムを強調して、ストリングスなどが添え物として乗る。ところが『心の旅』は、ベースのリズムよりも、チェロなどの低音楽器の音を随所で強調した。バランスは悪いが、結果として詞の世界やメロディーが持つ情熱を伝えることになった。「写真」のように演奏された音をそのまま録音するのではなく、強調したい音を「絵画」のように自由に描く手法を意識した。たとえばサビの最後の1小節とサビの前の1小節のピアノは通常の3倍くらい強調されている。ピアノの弦の真上にマイクを近づけてセッティングすることで、音の輪郭を鋭くとらえている。

詞も、「明日の今頃は僕は汽車の中」というフレーズがある。前述の通り、東京に出るのは相当な覚悟がいる時代だった。詞では夢や希望が語られているが、捨て去るものもあるという、複雑な感情が表現されている。また、「旅立ち」のテーマが当時のトレンドでもあった。71年の上條恒彦と六文銭の『出発の歌』や、72年には、はしだのりひことクライマックスの『花嫁』が大ヒットしていた。「汽車」という言葉は、『花嫁』からインスパイアされたと財津自身も語っている。

『心の旅』の創作話として、さらに欠かせないエピソードがある。録音の直前に、ボーカルがギター・キーボ-ドの姫野達也に代わったのだ。これは新田が指示した。突然の交代劇のため、録音の開始が遅れた。事情を知らないスタッフは録音ブースで、メンバーやスタッフが真剣な表情で話しているのをじっと見守っていた。雰囲気が重いのが気になった。その間およそ三十分、ようやくレコーディングが始まったのだが、いきなり姫野が歌い出し、スタッフは驚いた。

財津は日本のトップボーカリストのひとりだと、新田は評価している。ネガティブな理由で姫野に替えたのではない。Aメロとの対比を出すため、財津の歌声は「あ~だから今夜だけは君を抱いていたい」のサビでどうしても必要だった。この歌の強力な武器はコーラスにあった。コーラスの中心は財津である。ならばリードボーカルを姫野に託して、財津が力強いコーラスを歌い上げるほうがベストだと判断した。

『心の旅』は必ずヒットさせなければならない。リードボーカルもコーラスをもと、二兎は追えない切羽詰まった状況だった。そのため、新田の提案を財津は受け入れた。だがあたりまえのように自分がメインで歌っていただけに、わだかまりが残った。しかし結果的に姫野の甘い声が女の子の心をつかんで、オリコン・チャートで一位となった。

コンサート活動も、73年の郵便貯金ホールでのコンサートの成功で人気に火がついた。客席は超満員の観客で埋まり、ステージは興奮のうちに幕を下ろしている。続けて『夏色のおもいで』『銀の指環』と立て続けにヒットを飛ばし、全国ツアーはどこの会場も満員。特に女性ファンの熱気はアイドル顔負けとなった。

しかし『夏色のおもいで』でも、財津は苦い体験をしている。新田が作詞を、外部の作家である松本隆に依頼したのだ。松本はこの曲が作詞家としてのデビューとなった。財津は自分で書くつもりだったが、新田は松本の才能を買った。財津は挫折感に打ちのめされた。『心の旅』でボーカルを奪われ、『夏色のおもいで』で詞を奪われ、自分はいったいなんなんだろう」と自問自答した。



青春の影

テレビ出演が増え、チューリップは若い子らのアイドルとなった。だが芸能人にはなりきれない。やはりビートルズをお手本に、アイドル性が希薄な楽曲、『青春の影』をシングルにしようと試みた。賛否両論あった。当時のプロデューサーであった新田和長の強い意見で、『青春の影』は6枚目のシングルとなった。

『青春の影』は、それまでの歌謡ポップス的なサウンドから一変した、スローバラードとなった。コンサートのラストナンバーとして長い間演奏されることになる。ピアノのイントロが流れると、水を打ったような静けさが訪れるという光景が各会場で見られた。財津は語る。「チューリップは常に新しいサウンドをシングルレコードを通じて提供してきましたが、『青春の影』は、かつての日本音楽界が作り得なかったサウンドをつくりました。現代の若者の、男と女の青春の終焉を詩った歌です」

『青春の影』は当初、アルバムの片隅にあるような曲だった。それが「チューリップの代表曲」といわれるようになった。現在でもCMで使われたり、若い人がカバーしている。しかしつくった財津自身は、なぜこれほど支持されるのか分からないという。当時はチューリップの曲として、バラード・ナンバーは歓迎されていなかった。草野は、『青春の影』をシングルにすることに反対していた。案の定、草野の予想通り、発売当時はあまり売れなかった。ところが、2005年に草野が亡くなると、意外なことがわかった。「ぼくが大好きだった曲」として墓碑に刻まれた三十曲のなかに『青春の影』が入っていたのだ。ビーチ・ボーイズの『サーフィンUSA』、イーグルスの『ホテル・カリフォルニア』、ビートルズの『ヘイ・ジュード』、ジョン・レノンの『イマジン』などの洋楽の名曲がずらりと並ぶなか、一曲だけあった日本の歌であった。なぜ草野は選んだのか。このことを財津は自著『私のいらない』で綴っているが、その理由を財津自身も知らない。ただ事実を事後に知らされたとき、驚きと感謝で、胸が詰まった。



心の旅、解散、再結成をふりかえる

ー 財津和夫 ー
1972年6月5日、チューリップはシングル『魔法の黄色い靴』とアルバム『魔法の黄色い靴』でデビューした。その年は、ヒットもせず、目立った活動もできずに終わったが、翌年、デビュー三曲目の『心の旅』がヒットチャー卜をかけのぼって、一位に躍り出た。絶対にヒットすると信じて頑張ってきたことが、実を結んだのだ。頑張ったかいがあった。これで、これからは楽に食っていけると思うと、うれしかった。それが、ぼくのせこいところでもあるし、根はさぼりたがりやのところでもある。しかし、世の中とは、そんなに甘いものじゃなかった。それ以前の、事務所からの前借りという借金は、思っていた以上にふくれあがっていたし、扶養家族もいなければ、必要経賞もあまりかからないぼくらは、税金をすごく取られて、その残りを五人で分けたら、手元にはほとんど残らなくなってしまった。それどころか、新しい楽器を購入したら、あっというまにすっからかんに消えてしまった。いっぽう、ヒットすれば、仕事はどっと入ってくる。それをまた、ここぞとばかりにすべて受け入れる。規則正しくレッスンスタジオへ通い、ときどきライブハウスに出演し、身の丈に合ったコンサート活動をしていたぼくらの生活は一変した。地方でのコンサートが増えて、というより、それ一色になって、旅から旅への暮らしが始まった。当時のことだから、移動はほとんどが列車である。それもまだ新幹線は、東海道線だけ。今からみると、きわめて乗り心地の悪い電車にゆられゆられて目的地へ向かった。昔の電車は、ほんとうによくゆれた。そのうえ、冬場の暖房はどの列車も、椅子の下から温風が吹き出す式のもので、椅子にかければ、火傷をしそうなほど猛烈に熱くて、席を立てば、ガタガタふるえるといった具合だった。ましてや、夏の冷房はまだ珍しかった時代で、コンサート会場の市民ホールだとか県民会館などという場所も、冷房完備とはいかなかった。そこに照明の熱が加わるので、灼熱地獄である。音響についてはお話にもならない。地方での公演をドサ回りといったりするが、まさに、それ以上の誉め言葉は見つがらなかった。こんな暮らしを続けながら、気の利いた新曲が生み出せるとは、どうしても思えない。肉体的にも精神的にも、正直いってまいった。こんな暮らしが、この先、何年も続けられるとは思えなかった。ヒットする前も、こんな暮らしはせいぜい一~三年だろうと予測したが、ヒットしてからも、やはり、こんな暮らしは長く続けられないだろう。実際にこんな暮らしを、三年以上も続けるのはたまらないと思った。唯一、喜べたのは、五人が三か所の住まいに分散して住めるようになって、ひとりの部屋をもてたことだった。しかし、その喜びもつかの間、また新たな悩みに襲われた。ヒットによって、自分たちの意思とはかかわりなく、アイドルになってしまったのだ。どこでどう調べてくるのか、家は、セーラー服を着た女の子たちに取り囲まれたし、真夜中だろうがなんだろうが、ひっきりなしにファンと称する人だちから電話がかかってくるようになった。番号を変えても、またすぐ同じ状態になる。今、思えば、それだけ有名になったのだから、ありがたいことなのだが、ノイローゼ状態に陥って、毎晩、電話を毛布にくるんでから寝るのが日課になった。もう、このまま終わってもいいと思った。いや、終わらせたほうがいいと思った。一つのヒットが出たことで、知人も増え、今後は音楽の周辺のスタッフとしてやっていけるめどもついたな、と思ったのだ。だから、とにかくやれるところまでやって、ある日、突発的に終わりにしてもいいと心を決めた。三年が四年になり、四年が五年になり、十八年も続いてしまったのは、皮肉なことに、長い先を見ていたからではなくて、次の準備、次の準備と、すぐ目の前の次を見ていたからにほかならない。もう一つの皮肉は、日々、生活感いっぱいに暮らしていながら、少女趣味のような、夢のような歌ばかりがヒットしてしまったことだ。男くさい曲もたくさんつくっていたのに、メロウな曲が注目を浴び、チューリップといえばメロウな曲、といわれたのも、なんともいえない皮肉である。



解散について

 ーとある記事からー
 

財津は解散については、そう深刻に考えなかった。感情的にもならなかった、友人でもあり、ライバルだったオフコースが先に解散していたので、自分たちにもいずれ訪れるだろうと思っていた。むしろ肩の荷が下せると、ほっとした。それに才能があるバンドは解散が早い。ビートルズはたった7年間だった。チューリップは18年。まさに才能のない証拠だった。もう十分だった。このときオリジナルメンバーは、財津以外誰もいなかった。そもそも彼らは、財津の独断と偏見で、いくつものバンドを解散させてあつめたメンバーだった。破壊される側の苦しみなど、微塵も考えなかった。しがらみも情けもなかった。全国に通用するグレードの高いレベルにするには、福岡での情けなどにとらわれているひまはなかった。みなそれぞれのバンドのリーダーをやっていた。そういう人間を、かなり強引にあつめてチューリップに仕立てあげた。ヴォーカルでベースの吉田彰、リードギターの安部俊幸、ドラムの上田雅利、ヴォーカル、ギター、キーボードの姫野達也、そして財津の五人だった。これが福岡から一緒に上京した。その半年後、東芝EMIから『魔法の黄色い靴』でデビューした。だが、この五人も、バンド・デビューしたときのオリジナルメンバーではない。最初は四人だった。そのうち二人が、きちんと大学を出て、ちゃんと就職するといって、去っていった。バンド的に力のある人間であること。それだけしか財津は考えていなかった。人間関係や、和を保てるかなど頓着しなかった。とにかく集めるだけ集めて、福岡をあとにした。東京に来てからも日々勝負であって、人間関係について考える余裕はなかった。よくいえば、バンド至上主義だった。当然のことながら、ぎくしゃくしたものをそれぞれが抱え、やがてそのままチューリップを去っていった。彼らが去っていってから、ようやく冷静になり、申し訳ない気持ちになった。そのあともチューリップは存在し続け、一人去っては、また一人加わった。結局解散時のメンバーは、財津のほか、宮城伸一郎、丹野義昭、高橋浩幸だった。そのとき財津は彼らに、事務所として若手をプロデュースするので、一緒にやってくれないかと誘った。しかし芳しい返事はなかった。財津は、けっこう嫌われていたのだと考え込んだ。ふりかえれば、いつも怒鳴っていたかもしれない。たとえばステージを終えれば、そのあと長いミーティングをするのが、チューリップの決まりだった。それも胃の痛くなるような。みんな無理してついてきてくれていたのだ。こうしてデビュー以来、アルバム33枚、シングル34枚を発表し、1244本のコンサートを行なったチューリップは、1989年、解散した。3年のつもりだったのが、18年も続いていた。


 

再結成について

財津和夫
 

きっかけは姫野だった。「ビートルズを追っかけてきたぼくらとしては、やらない?」と誘ってきた。ジョン・レノンはいなくても、ビートルズはアルバム上では再結成できた。うれしかった。主導したチューリップでは、人間関係にはいっさい考慮しないで、ただサウンドのセンスだけで強引にあつめ、強引に突っ走ってきた。音楽以外ころまで考慮し、目配りする余裕がなかった。メンバーにはいやな思いをさせてきた。それなりの評価を受けてきたから、みんなはがまんしてきてくれた。去っていったメンバーには、申し訳ない気持ちがずっとあった。それをどこかで取り返さないと、このさき一生負い目を感じて生きていかなくてはならない。再結成をメンバーから言われたことが、財津にはうれしかった。再結成は8年ぶりとなる、97年1年間の期間限定。同窓会気分で、ヒットもコンサート動員も考えない。こうしてあつまったのは安部俊幸、姫野達也、上田雅利、宮城伸一郎の五人となった。デビューしたときの吉田彰よりも長くチューリップに在籍した宮城が入ったことになる。スタジオにメンバーがあつまる。ぎくしゃくした雰囲気で別れていたのに、みんなすぐ博多弁に戻って、和気あいあいの空気となった。97年夏から始まったコンサート・ツアーの客席には、いっぱいの人で埋め尽くされていた。追加コンサートまでおこなった。10月には、最終の東京・武道館のステージに立った。66年にビートルズが1万人をあつめた武道館だったが、音響面で難があったため、敬遠していた。やがて時代とともに改善されたが、そのときにはチューリップは、単体であつめる動員力を失っていた。だがようやくそのステージに立つことができた。財津はビートルズと同じ舞台に立っていることを、自分に何度も言い聞かせた。「また機会があったらやろう」。みんなとそう言い合って別れた。事実、その後も幾度となく、チューリップは再結成されている。

 

 

財津和夫ヒストリー

 

 

 

 

 


両親と



小学生のころ、友達と(右端から3番目)



高校生のとき、先生と



71年、福岡から上京

空港まで知人が車で送ってくれた



72年デビュー




『心の旅』が大ヒット
左端は草野昌一



76年、ポール・マッカトニーとロンドンで



2004年から大阪芸術大学の教授に



2010年、創立50周年を迎えた福岡大学マンドリンクラブの記念演奏会にゲスト出演。クラブの発起人の一人である兄の三郎さんの指揮で『心の旅』などを歌った。


 

 

 

財津和夫ヒストリー Ⅱ へ続く