ZUZU物語(1/2) ~安井かずみがいた時代 編年体~ | Kou

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音楽雑感と読書感想を主に、初老の日々に徒然に。
ブログタイトル『氷雨月のスケッチ』は、はっぴいえんどの同名曲から拝借しました。

 

島崎今日子著『安井かずみがいた時代』。この本は、今は亡き安井かずみ加藤和彦夫妻と交流のあった26人へのインタビューをもとに、その人間像に迫ったドキュメントです。さまざまな関連資料をベースに、夫妻の近親者や友人知人からの貴重な証言を加えた、筆者渾身の快著です。島崎氏とほぼ同い年の自分にとっては、同時代感覚を甦らせてもくれます。

 

この本の初出は雑誌の連載でした。そして本のあとがきによると、編集者は、編年体形式を著者に要望していたようです。ただ準備期間が不足していたため、やむなく本書のスタイルになったとのことです。証言者ごとに章を立てるこの構成は、その人自身の人生をあらわすことで、夫妻の人間像をより浮かび上がらせています。しかし人の生涯というものは、やはりひとつの時間軸で辿る方がわかりやすいはずです。

 

そこで勝手ながら、また僭越ながら当ブログでは、本書の記述をもとに、その編年体を試みることにしました。具体的には、各章に散らばる同種の出来事をまとめ、時系列的に並べ替えたということです。しかし、膨大な本書の記述をすべて移し替えることはできません。また、自分の興味のある事柄を主観的に選択したため、彼女の人生をなぞるという意味では、不完全なものになったかもしれません。

 

しかしこの編年体の目的はもうひとつあります。本書の魅力でもあり、また問題提起でもあった、証言者ごとに食い違う夫婦像を、並列化できたことです。安井と加藤の人となりの記述を一か所にまとめたことで、その比較が容易くなったはずです。じつは自分は、一昨年のブログでも今回と似たような試みをおこなっています。しかし食いちがう証言の複雑さに根を上げ、結局は中途半端にお茶を濁し、あげくの果てにその記事は削除してしまいました。今回は証言を時系列で、しかも細分化したことで、前回よりは目的に近づけたと思っています。原著を読まれた方にも、お目を通していただければありがたいことです。

 

 

 

 

 

誕生

 

安井かずみは神奈川県横浜市に住む安井修一の長女として、1938年12月25日に生まれた。ただし届け出の都合で、戸籍上の誕生日は39年1月2日となっている。名は一美とつけられた。父は横浜国立大学を卒業後、東京ガスに入り、球体のガスタンクを開発するなど優秀な技術者だった。フランス語の原書を読むなど、学者肌の人でもあった。母は親戚中から慕われる人で、教育熱心だった。

 

安井は幼い頃から自己主張が強い勝気な性格で、一家の女王蜂だった。弁が立ち、母の手にも負えない娘だった。母は次は穏やかな子が欲しいと、五年後に順子を春に生み、名は従順からとった。姉はその順子をよく叱った。順子は姉から「それはダメ」「そうしなさい」と常に命令されていた。長じて順子はミス横浜に選ばれるなどの才色兼備の女性に成長、若き姉は嫉妬を隠さなかった。

 

安井は小学校の卒業式で答辞を述べた。中学と高校は横浜にある、ブルジョアやインテリ層の娘が通うプロテスタント系の名門フェリス女学院。卒業後の71年に発行された学友誌に、「私は他のどの年月に比較することなく、あの六年間を愛している」と寄稿している。自著にも生涯を支配する資質を培われたとして、フェリスでの時間に多くのページを費やした。「私はフェリスだから」が口癖だった。ティーンエイジャーの頃の安井は、本に耽溺する寡黙な少女だった。

 

安井は学業の傍ら、稽古事は茶道に華道、ヴァイオリン、ピアノ、バレエ、日舞、フランス語などで、お嬢様芸の域ながら、テニスも覚えた。最も夢中になったのが油絵で、クラブも宗教部と美術部に入っていた。神奈川県の高校美術展覧会では朝日新聞賞を受賞し、芸術系大学への進学を志望するようになる。

 

しかし、競争率二十数倍の東京芸術大学絵画科油画専攻の受験に失敗、一年後の58年、文化学院油絵科に入学した。同校は西村伊作や与謝野晶子らが、自由で独創的な人を育てることを目指して創設。学費も高く、就職希望者は入らない特別な学校だった。世間からかけ離れた環境で、かつ個性的な学生が多い中でも、安井は人目を惹くみんなの姉貴分のような存在となる。銀座で個展も開いた。まだ学生だった安井はすでにMGはじめ、外車のスポーツカーを乗り回している。昼間、帝国ホテルのテラスで待ち合わせ、シルバーダラー・ケーキを食べ、銀座で買い物をし、日比谷で映画を見た。休暇には、ゴルフ、テニス、スキー、車のレーシング。一般の若者たちとはかけ離れていた。

 

 

 

訳詞家

 

女流画家を目指していた在学中、楽譜を買いに出かけた音楽出版社で、アメリカのポピュラーソングの訳詞をしている男たちを見かけ、「そこの所、こんな言葉はどうかしら?」と口を挟み、その場で訳詞することになった。その男たちの中に、『ルイジアナ・ママ』『可愛いベイビー』など、欧米のポップスの訳詞を手がけて、日本に洋楽を普及させた漣健児がいた。

 

この偶然のきっかけからエルヴィス・プレスリーの『GIブルース』を和訳、61年1月、21歳で訳詞家としてデビューした。この歌は坂本九が歌っている。安井は『みナみカズみ』のペンネームで、フランス語と英語の訳詞ができる語学力と、独特の発想による歌詞世界で知られるようになる。『花はどこへ行った』『ヘイ・ポーラ』『レモンのキッス』『アイドルを探せ』『ドナドナ』など、耳に馴染んだあの歌も、若き安井の作品である。

 

 

 

作詞家

 

60年に開店した六本木のイタリアンレストラン『キャンティ』には、安井はまだ画学生のころから日参している。三島由紀夫や黛敏郎など名だたる芸術家が集う、東京カルチャー発信拠点のこの店で、安井は渡辺プロダクションの渡邊美佐と昵懇となる。当時、渡辺プロは芸能プロダクションの最大手だった。渡邊は安井の生涯において欠くことのできない大きな存在となる。比重としてはビジネスというより、むしろ友情のほうが大きかった。安井にとって十一歳年上の美佐は、姉であり、第二の母であり、最大の庇護者だった。

 

安井は渡辺音楽出版にマネジメントを任せる。安井がはじめて作詞をしたのは、64年の中尾ミエの『おんなのこだもん』。最初の大きなヒットとなったのは、園まりの『何も云わないで』だった。園はロマンチックな詞だと感じた。この頃安井はちょうど恋愛中で、その心情を歌ったものだとマネージャーから聞かされる。安井の詞は、同じ女性作詞家の岩谷時子や山口洋子も、高く評価することになる。岩谷時子「安井さんの詞はウソがなく、素直のまま書いていらっしゃる。若い作詞家の中では、あの方が一番好きです」。山口洋子「作詞家が作詞家のファンになる。特に女同士で。わたしには到底言えないような詞をつくる」

 

65年、伊東ゆかりの『おしゃべりな真珠』で安井は、第7回日本レコード大賞作詞賞を受賞。女性の職業がまだ限られていた時代、若く美しく、才能溢れる女性作詞家をマスコミは放ってはおかなかった。センター分けのストレートボブに付け睫、ツイッギーのような肢体の安井の姿はしばしば雑誌のグラビアを飾り、私生活は記事になった。安井は「六本木の女王」「モデルもする作詞家」として、マスコミの脚光を浴びてゆく。林真理子「都会の匂いがぷんぷんしていた。濃いサングラスをかけて、煙草をくゆらす姿はとても日本人とは思えないほど、カッコよかった」

 

戦後、すべての価値基準が瓦解した中で育った安井は、「戦後派人間第一期生」を自認した。ファッションはフランスの「VOGUE」誌から、料理はアメリカのタイムライフ誌から、結婚はボーヴォワールやジェーン・フォンダから、住まい方はイタリアの「domus」誌から、あるいは旅行先のパリの友人宅から盗んだ。安井の飛び抜けたセンスのよさは、誰もが認めた。

 

林真理子「安井さんのエッセイ集には、パリのこととかいっぱい出てきて、この世のものとは思えないくらいお洒落でした。着るもののことやワインの飲み方、海外でのショッピングやバカンス、海の向こうのデザイナーたち、夜遊び、イタリア料理、ディスコ、いろんなことを、女の子にいっぱい教えてくれました。フランス語が喋れて、お洋服の趣味もすごく素敵で、交友関係も華麗。恋のことも隠さず語るのが、またカッコよくて、加賀まりこさんが親友で、二人で恋愛話している姿なんて、想像しただけでため息が出たものです。セレブなんて言葉ができるずっと前の選民でした」

 

 

 

 

『キャンティ』のオーナー夫人川添梶子と安井は親密となり、多大な影響な受ける。安井は数々のエッセイで、彼女との思い出を繰り返し綴っている。「キャンティ・クイーン梶子から私は五十パーセント以上をいただいた」と最大級の賛辞を捧げている。64年25歳の秋、梶子の主宰するパーティーで安井はN(原著では実名)と出会う。

 

Nはトリノ工科大学で建築美術を、ニューヨークのユニオンカレッジと上智大学で経済学を学んだ後、父が経営する赤坂のナイトクラブに併設されたデパート部門を指揮する若き実業家だった。その頃の東京は、生バンドが入るナイトクラブが最高の社交場で、そのきらびやかな一帯は赤坂租界とも呼ばれた。父は台湾人で、世界一の仏像コレクターとしても知られた実業家であり、ナイトクラブの他、今でいうブティックやカフェテラスなどを次々とオープンさせていた。

 

出会った二人は、さっそく意気投合。Nを誰もがジョージと呼んでいた。安井より3歳年下、背が高くガッチリとした体型で、神秘的でかっこよかった。イタリアに長く住み、世界の一流のものを知る本当のセレブだった。

 

Nはアメリカンスクールに通ったのち、アメリカへ留学するなどほとんど外国語圏で育ったため、英語、イタリア語、フランス語、スペイン語はできても、日本の漢字は四百ぐらいしか知らなかった。英語でものを考えるからまわりと話が合わず、ずっとアウトサイダーだった。安井とは美術が共通の趣味で、Nは父の影響で古代ギリシャなどの骨董をいつか扱いたいと思っていた。お互い、テニスやスキーなどのスポーツや車も好きだった。少女時代の安井は、病弱で一人遊びが得意だった。彼女は美術への造詣が深く、孤独の影をまとった青年に同質を見出した。

 

Nと出会って間もない頃、安井は加賀まりことパリへ三か月の旅行をしている。離れ離れの時が二人をさらに結びつけた。まだ海外旅行がめずらしかった当時、安井は世界中を旅をして、貴族や有名人と優雅な生活を送っている。パリ旅行をエスコートしたのはサンローランやトリュフォー、ドダールだった。

 

安井が訳詞家から作詞家へ転身してゆくのは、この頃だった。その高揚の時期を、Nは傍らで見ている。65年の春、Nとの初めてのデートから半年後、二人は安井が暮らしていた南青山三丁目のマンションで同棲生活を始める。志賀高原に仲間とスキーに出かけ、安井がくるぶしを骨折。Nの手を借りないと身動きがとれないギブスでの生活は、彼女の心を一気に結婚へ向かわせた。

 

66年10月、安井はNとローマの丘の上のヴィラ・メディチで結婚。Nの友人が数人が参列するだけの質素な結婚式だった。式のあとの二か月、電車やバスを乗り継いでヨーロッパ中を旅行した。帰国後、外国人用にしつらえた代官山東急アパートの1LDKで暮らし始めた。建築にも詳しいNが、超モダンな内装につくりかえていた。安井のセンスはジョージによって磨かれた。

 

 

 

不協和音

 

誰もが羨むような生活が始まったが、不協和音も聞こえ始めた。帰国後安井は仕事を再開したが、作詞家という性格上、関係者と毎夜遊び歩く安井にNは怒った。代官山アパートにはNがものを投げた傷跡が残った。真面目な彼はオーソドックスな生活を望んでいた。

 

68年、伊東ゆかりの『恋のしずく』が、オリコン・シングルチャート初の女性アーティスト1位をとる。一方加藤和彦がメンバーの、ザ・フォーク・クルセダーズが歌う『帰って来たヨッパライ』が、オリコンチャート史上初のミリオン・シングルとなる。

 

68年6月、Nとともに住まいをニューヨークに移す。世界で一番ホットな場所でなら、軋み始めていた結婚生活を再生できるかもしれないと願った。Nはアクセサリーの手作り加工品を高級デパートなどに卸すなど、新しい仕事は軌道に乗り、高収入も得られるようになった。イーストサイドのアパートメント、レスリーハウスに暮らし、『VOGEU』の名物編集長ダイアナ・ヴリーランドはじめファッショナブルな人々と交流しながら、夫婦でアクセサリーをつくる日々。しかし安井には先が見えない生活に不安を覚える。ニューヨークの殺伐とした空気にも馴染めなかった。日本にいれば有名な作詞家でいられる。よく喧嘩もした。

 

ニューヨークでの生活が八か月を過ぎた頃、「パリに服を買いに行きます」と、安井は書き置きを残してニューヨークの家を出る。渡邊美佐が仕事でパリにいるのを知り、会いに行ったのだが、これを機に離婚を決める。林真理子「お金持ちと結婚して振ったというのも勲章。富豪の男のドールでいるには飽き足らなかったという女の人は、海外ではココ・シャネルとか結構いますけれど、日本にはなかなかいませんからね」

 

69年3月、日本に帰国。6月に離婚が成立した。ニューヨークで三人で遊んだコシノジュンコは「ジョージはすごくいい人だった。行動や美意識が感心するぐらい素敵で、粋だった。でも真面目な人で、そういう人との安定した生活にZUZUは退屈した」。離婚の意思を告げられたとき、Nは裏切られたと怒った。自尊心が傷つけられたと感じた。しかし「彼女は正しい選択をした。あのままニュ―ヨークにいたら、病気になっていた」と後にNは振り返っている。別れた二人は、その後一度だけ青山で夕食を共にしている。Nの横にはガールフレンドが、安井の横には加藤和彦がいた。N「幸せそうでした。『いい人がいて、よかったね』と僕は言いました。加藤さんは頭がよくて、優しそうだった。それから週刊誌などで彼女の活躍を見ると、頑張っているんだなぁって。あの人は頑張り屋さんでしたから」

 

 

 

奔放

 

パリから帰国した安井は、加賀まりこが暮らす『川口アパートメント』三階の一室に入る。自由になった安井は「恋人は必需品」と宣言し、次々と恋をする。暮らす相手はよく替わった。ミュージシャンや編集者、作家など、ハンサムな年下が多かった。脂ぎってるような男は嫌いだった。この人と目をつけたら絶対離さなかった。恋人と喧嘩して、編集者の矢島祥子が呼び出されたときは、顔に痣があった。豪快な車の運転も有名で、酔っ払ってフェラーリをぶつけたこともある。

 

安井は離婚後の最初の仕事として、沢田研二のソロアルバム『JULIE』の全作詞を手がける。続けてスター歌手を綺羅星の如く抱える渡辺プロの仕事が降ってきた。小柳ルミ子、布施明、トワ・エ・モア、辺見マリ、天地真理、アグネス・チャン、キャンディーズ。そこには名プロデューサー渡邊美佐の配慮が働いていた。安井自身もそれを自覚していて、「私が作詞家として、どうやら一人前として仕事をしていられるのも、彼女がアレコレ気にしていてくれるから。過保護で世間の荒波も知らず、のんきな娘時代をえんえん続けていられる恩人」

 

しかし70年の春、安井はマリファナの不法所持で逮捕される。警察で身元を引受た渡邊美佐は、打ちひしがれた安井を案じたが、しかしその後の人生に影を落とした気配はない。マリファナはファッションのようなものだった。

 

72年、川口アパートの三階の小さな部屋から、一番大きな部屋に移る。新しい部屋は一階のプールの横だった。誰もが羨む伝説となった一番いい部屋で、アルフレックスで内装を一新し、レコード大賞の楯とかを捨てた。ゴチャゴチャしたものは嫌いだった。Nの影響がまだ残っていた。

 

73年、沢田研二は『危険なふたり』で、ソロシンガーとして初めてオリコンチャート一位を獲得する。作詞した安井が曲名を思いついたのは、沢田を助手席に乗せて飛ばしていたときだった。作曲した加瀬邦彦は「あの詞は、ZUZUが自分をテーマに書いた気がする」。コシノジュンコも「あの人は、ジュリー命でした」。吉田拓郎「ZUZUは彼に抱かれたいと思っていたでしょう」

 

 

 

焦燥

 

富士ゼロックスのCMで、加藤和彦が『BEAUTIFUL』と書いたプラカードを持って銀座の街を歩いたのは70年。『モーレツからビューティフルへ』あくせく働くのはもう古い。日本がポスト高度成長時代へと舵を切るときに、音楽業界も激変してゆく。60年代後半のグループサウンズ・ブームを経て、フォークロックが台頭。音楽シーンはシンガーソングライターの時代に突入し、吉田拓郎、井上陽水、松任谷由実、中島みゆきらの作った曲がヒットチャートの上位に登場するようになっていた。

 

安井も同じ時期、作詞家としての第二次量産期に突入している。70年は、辺見マリの歌う『経験』がレコード大賞の新人賞を受賞し、自身で歌った最初で最後のアルバム『ZUZU』を出している。71年は『わたしの城下町』、73年は『危険なふたり』で日本歌謡大賞を受賞し、『赤い風船』は浅田美代子を一気にスターダムに押し上げ、74年は郷ひろみの『よろしく哀愁』など、毎年ビッグヒットを放っている。しかし、自分の心情を自分で歌うシンガーソングライターの登場は、職業作詞家の仕事場を侵食されることを意味し、プライドの高い安井は焦燥感を募らせた。

 

また安井は、注文をただ消化するだけで、自分自身を表現できない葛藤を抱えていた。それを埋めるためさらに仕事に没頭した。絶対に書ききれないスケジュールを取り、不眠症、頭痛、腰痛、肩こりに悩まされた。気がおかしくなる瞬間も味わった。孤独もいやというほどかみしめた。自著『ワーキングカップル事情』では、この時期が一番辛かったと記している。一人で家にいられず、男性を救急車代わりにしていて、数だけは増えたが、じっくりつきあう恋人ができるはずもなかった。

 

 

 

ZUZU物語(2/2) ~安井かずみがいた時代 編年体~ に続く