つづきです。駄文です
私の母は11年前の春に亡くなった。わたしがちょうど小学校1年生の頃だった。原因は癌だったらしい。母は仕事場の健康診断を受けるまで全く気がつかず、もうその頃には手遅れだった。生真面目で芯の強い父は諦めずいろいろな病院を回ったが、どの病院でも首を振られるばかりだった。母は白い壁の薬品の匂いがする病院で、見舞いに来た私の頭を何も言わず何度も何度も撫でていた。本当に大切そうに。愛おしそうに。もうほとんど母の記憶は残っていないが、その手の感触と、その時外で舞うように散っていた淡い桃色の桜が妙に儚くて、まるで母のようだと思った記憶だけが残っている。結局、母の死に目にはあえなかった。私が小学校に行っている間に、容態が急変する事もなく眠るように静かに逝ってしまった。しかし、ベッドの横には“御影へ”と書いただけの手紙とふたが開いたままのペンが落ちていたらしい。母はあの時私に何を伝えたかったのだろう。おっとりとした性格だった母は事前に手紙を書くということをしなかったらしい。もしかしたら、そんな体力も気力も残っていなかったのかもしれない。
だから。
母へ続きを催促するために。手紙の内容を知るために。
私は空へ手紙を出し続けている。
否。
本当はただ自分が母の死を受け入れる事が出来なかっただけなのかもしれない。
本当はただ寂しくて誰かに――母に話を聞いて欲しかっただけなのかもしれない。
小百合さんは父の再婚相手だった。父には父の人生があると割り切っていても、どこかで裏切られたような気がしていたのだと思う。小百合さんはとても優しい人だ。(本人は無自覚のようだが)私が帰ってくるといつも「何食べたい?」尋ねてくれる。私がどんなに突き放すような言い方をしてもコミュニケーションをとろうとしてくれるいい人だ。
けれど。
私が小百合さんを「お母さん」と呼んでしまったら、
それは、母の存在を否定してしまう事になるのではないだろうか。
お母さん、それはあなたを裏切る事にならないだろうか――――――――――。
翌日。
とりあえず昨日と同じ時間に屋上に来てみたが、悠太はいなかった。
「来いって言ったのはあっちなのに・・・・」
嘆息しながらドアを閉めて、少しの間待つ事を決める。
まぁいいか。天気もいいし、持ってきたおにぎりでも食べていよう。
今日の空も突き抜けるような青だった。空が青いと母が元気に笑っている気がする。そうして空を見上げて歩いていたら、足元に障害物があることに気づかずつまずいてこけてしまった。なんだろうと思って見てみると、それは黒いランドセルだった。
「なんだ、来てたんだ…」そう言おうと思ったのに声を発する事ができなかった。原因は私がこけた時に盛大にばらまいてしまった教科書とノート類だった。思わず口を押さえてしまう。それは悪意と嫌悪と軽蔑の塊。びりびりに破られて文章を読むことさえかなわない国語の教科書。接着剤が塗りつけられて開かない算数の教科書。筆箱の中の鉛筆さえも丁寧に1本1本折られている。ノートには罵詈雑言でいっぱいだった。“バカ”“死ね”とか“生きる価値 皆無”とかよく小学生が思いつくものだと卑下している中で1番多く目に入ったのは“うそつき”だった。
悠太がなにか嘘をついたのだろうか。そんな風には思えないが。
あまりに衝撃的な光景に呆然としていると、背後でドアの開く音がした。驚いて振り返ると同じように驚いた顔をした悠太がそこに立っていた。視線を下に落として散らばっているランドセルの中身を見ると、少し笑いながら言った。
「…ばれちゃった?」
私は悠太のそれが虚勢だと分かっていたので笑い返さなかった。
「あんた……学校でいじめられてたの?」
答えは広がる証拠で明白だった。きっと昨日もいじめている同級生から追いかけられて逃げていたのだろう。あの“嫌なやつ”も“逃げなきゃ”という言葉の意味も今ははっきりと理解できる。
「でも、なんで?」
悠太がいじめにあう性格だとはとても思えない。私の質問に対して、悠太はしばらく何も言わなかったがやがてゆっくりと口を開いた。
「僕、御影のお母さんに会ったんだ」
「は……?」
私の質問と全く関係のない話に呆けてしまう。
「そんなはずない。だって私のお母さんは悠太が生まれる前に死んだんだから」
悠太はひどく寂しそうに笑って言った。
「うん。だから“うそつき”なんだ」
私は直感的に悟った。
「もしかして…」
「……僕、霊が見えるんだ」
母が死んでから、私はその存在を信じたくて、でも、信じることが出来なかった。だって目に見えないから。そんな異質なものが悠太には見えていたなら、周囲の人間は悠太を特殊な人間として見ただろう。特殊な人間はどんなところでも輪の中からはじかれるのだ。
「1人で急に話し始めたり奇異な行動をとったりするんだもん。気味悪がられて当然だよ」
悠太はへたり込んでいる私の隣に座った。
「霊なんて見えなければいいってずっと思ってた。でも、同級生達から追いかけられて隠れていた時に御影のお母さんに会ったんだ」
母は空に還っていなかった。まだこの世にとどまっていた。それは嬉しい反面成仏できていないという事じゃないだろうかと思うと、少し悲しかった。
「じゃあ、どうして昨日本当のことを言ってくれなかったの?」
「……信じてくれないと思ったから」
聞いてからしまったと後悔した。学校でうそつきだと罵られてきた悠太にとって、真実を話すことはとても勇気の要ることだったのに。悠太は空を見上げて中断してしまった話を続けた。
「御影のお母さんは僕の話を聞いて、僕の事を励ましてくれた。そして、御影の事を話してくれたんだ」
「お母さんは何て…?」
「御影に言いたい事があるから、それを伝えて欲しいって言ってたよ」
そう言って差し出された掌の上にあったのは、桜色の便箋だった。見間違うはずもない、母が亡くなった時に落ちていたあの便箋と同じだった。封を開けると“御影へ”という書き出しで、なつかしい母の字が綴られていた。
“寂しい思いをさせてごめんね。手紙、読むことはできないけれど、ちゃんと届いているわ。ありがとう。あの時――私が死ぬ直前に伝えたかった事を言おうと思って悠太君に頼んだのよ”
悠太は何も言わず私が読み終わるのをじっと待っている。
“御影、あなたの思うように真っ直ぐ、自分の心に従って生きて。私のことに囚われないで。小百合さんを受け入れても私を裏切る事になんてならないわ。御影の母親は私、それは絶対に譲らない事だけど小百合さんも確かにあなたのもう1人の母親なのよ。小百合さんがどれだけあなたの事を大切に思っているか、御影なら分かってるはずだわ。だから、もう私に手紙を出してはだめよ。本当に出さなきゃならない人はもっと身近にいるでしょう?”
私の視界は涙でぼやけてしまっていた。母はどこまでも、死んでしまっても、母親だった。
“御影、御影なら強く生きていけるわ。信じてる。私の娘に生まれてきてくれてありがとう。”
生前に聞くことの叶わなかった母の言葉がゆっくりと染み渡ってゆく。ありがとう、と悠太に伝えようとした感謝は嗚咽のせいで言葉にならなかった。
「……御影のお母さんから、御影がいつもどこにいるかは聞いていなかったから、このビルに逃げてきた時に御影を見つけたのは本当に偶然だったんだ。御影の風船を飛ばそうとしている姿がすごく寂しそうで、きっとこの人が御影だって思ったんだよ。…もしかしたら運命だったのかもしれないね」
いたずらっぽく笑う悠太に、私は「ありがとう……」と返す事しかできなかった。
その後、悠太から、母は悠太に思いを伝えてから無事に空に還った事を聞いた。私は自分自身の問題を解決するために家路に着いた。
ただいま、とドアを開けるといつものように小百合さんが「夕ご飯何食べたい?」と尋ねてくれた。
「…………カレー」
と、うつむいて答えると小百合さんは少し驚いた顔をして、にっこり笑った。エプロンをつけながらキッチンへ向かう小百合さんを見ていると、後悔とか感謝とかで胸がいっぱいになってしまって、思わず小百合さんに
「……小百合さん、ごめんね」
と言うと、彼女は一瞬泣きそうな顔になって、
「学校、ちゃんと行かなきゃだめよ」
と言われてしまった。なんだ、全部ばれていたのか、と思うと怒りより諦めの方が勝ってしまった。それから少しずつ本当の親子のように話せるようになってきている。
ちなみにその後、悠太に“もし……”の続きを問い詰めてみたところ、
「……もしよかったら友達になれないかなって言いたかっただけ」
しかし、悠太が小さく呟いたその言葉は
「えっ!?ごめん、今何て言った?」
風にかき消されてしまった。
「もう言わなーい」
悠太は楽しそうに笑っていたが、私は永遠の謎になってしまったその言葉の続きにしばらくは煮え切らないままだった。
2年後。私は高校を卒業して大学へ進学しても相変わらず廃墟ビルの屋上で悠太と他愛もない時間を過ごしている。悠太は中学1年になった。
「それでさー、隣の席の女子がもう可愛くて!この前なんか話しかけられちゃったんだよー……ちょっと御影聞いてるー?」
春のうららかな天気に半ばどうでもいい話を聞かされ、眠りかけていた私は現実の世界に引き戻された。
「あぁうん・・・聞いてる聞いてる。青春真っ盛りのようで・・・」
悠太は嘘っぽいなーと訝しげに言いながら御影は?と尋ね返してきた。いきなり質問されたので返答に悩む。
「うーん……学校は楽しいよ、友達も出来たし……あとは……あぁそうだ、今度小百合さんとお母さんのお墓参りに行くんだ」
ふと思い出してそう答えると、悠太はよかったね、と優しく笑った。
どんなに願っても叶わないことがあると思っていた窮屈な世界は、やっぱり変わらないままで―――私の母は決して生き返ることはなく、悠太のいじめも消えることはないままで―――
けれど、視界を広げて心の従うままに生きてみたら、この世界で息をするのが少し楽になった気がした。
学校も今ではそれ程嫌いではなくなった。それも、もしかしたら悠太のおかげなのかもしれない。
透き通るような青色の空に、心の慟哭が添えられた赤い風船が舞う事はもうきっとないだろうけれど、私は空から見守ってくれている母と、母がめぐり合わせてくれた悠太との出会いは必然だったと信じたい。
悠太の後ろから吹きぬけた風が、近くに咲いている桜の花びらを空高く舞い上がらせた。
それにつられて天を見上げると、いつもと変わらない突き抜けるような青空が、今日も変わらず広がっている。
長っΣ(゚д゚;)
ありがとうございました!