たしかに鳴梁海戦で日本側は敗れました。
しかし、海戦の5日後の『乱中日記』に「(朝鮮水軍が)古群山島に到着する」とあるのが気にかかります。
この島の呼称は現在では変わっていますが、韓国全羅北道の群山(クンサン)市にあります。
日本側は敗れたとはいえ、100隻の艦隊を残し、朝鮮側はわずか10数隻。
これではとても半島南岸の制海権を維持できないと考え、北へ逃避したのです。
つまり、日本水軍は一時的に退いたに過ぎず、戦略的にみると、朝鮮水軍を半島南岸から駆逐した日本側の勝利ということになります。
結果、「慶尚道・全羅道の南部海岸は、ほぼ日本側の制圧下に置かれることになった」(小川隆章著「鳴梁海戦に関する文献総覧:海戦の実相を求めて」/『環太平洋大学研究紀要』19号)という状況になるのです。
なお、李舜臣はこの海戦の翌年、秀吉の死によって撤退する日本水軍を追って勝利しますが、その海戦で命を落としました。
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