最後の将軍「徳川慶喜」の謎⑦[兵庫港開港問題] | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

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 慶喜が将軍になったのは慶応2年(1866)12月。いよいよ最後の将軍の誕生です。

 

 それからほぼ1年。彼は島津久光(薩摩藩主の父)らの諸侯や朝廷を翻弄し、翌慶応3年(1867)12月9日の王政復古のクーデターで幕府が消滅した後も政治の主導権を渡しませんでしたた。

 

 そんな慶喜が将軍になって初めて迎えた大きな政治課題が兵庫港の開港問題。

 

 この時代の攘夷思想は、天皇が認めていない条約を破棄しようとするものですから、天皇が認めてしまえば、攘夷の大義名分は失われます。

 

 慶喜が将軍になる前の慶応元年(1865)9月、イギリス・フランス・オランダの3ヶ国連合艦隊が兵庫沖に軍艦を終結させて条約の勅許を求め、朝廷はこの脅しに屈していました。

 

 こうして攘夷の時代は終わり、一時、政治の主導権を取り戻すために慶喜らがポーズで進めた横浜鎖港問題も完全に吹っ飛んでいました。

 

 それでも朝廷は、天皇がいる京都の外港(げこう)というべき兵庫の開港には断固反対していたのです。

 

 一方、幕府が列強諸国に約束した慶応3年(1867)12月7日の開港期限は迫っていたのです。

(つづく)

 

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