長州藩や薩摩藩が下関と鹿児島で攘夷戦争を実行したことで、もともと夷狄を討つ役割の征夷大将軍の立場が両外様藩に奪われた形となってしまいました。
幕府の権威は丸潰れです。
そこで幕閣は横浜への外国船入港などを禁じる鎖港(さこう)を図ろうとし、慶喜もそれに乗ったのです。
彼や幕閣の狙いは横浜鎖港を武器に、外様藩から政治の主導権を取りもどすことです。
実際には実行不可能なことはわかっていたのでしょうが、彼らは単なるポーズでないと内外に示すため、文久3年(1863)12月、談判のための使節を欧州へ派遣しました。
一方、そのころには京の政界に変化が生じ、薩摩藩が会津藩と組み、長州藩を京から追い落とすクーデターに成功していました。
薩摩藩は京の政界での主導権を握ろうと、長州藩とは逆に、朝廷を攘夷から開国へ方針転換させようとしています。
そして、朝廷の呼び出しに応じて11月末に再び入京していた慶喜は朝廷から「参与会議」のメンバーに指名されましたが、これも薩摩藩が仕掛けた策でした。
「賢侯」と呼ばれる諸侯(徳川慶喜、松平春嶽、山内容堂、島津久光、前宇和島藩主伊達宗城ら)が重大な国政を議論するための場で、幕府とは別に国の政治を動かす組織が生まれたことを意味していました。
(つづく)
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