橘諸兄の失脚もあって、仲麻呂が朝廷を掌握すると、いよいよ朝鮮出兵の計画が動き出します。
当時、朝鮮半島の北は渤海(ぼっかい)、南は新羅(しらぎ)が治めていました。
仲麻呂が南の新羅(現在の韓国にほぼ相当)を征服しようとしていた事実は、蝦夷計略の拠点である多賀城(宮城県)跡で掘り出された碑文から窺われます。
建碑者は藤原朝獦という仲麻呂の子です。
天平勝宝九年(757)、朝獦は陸奥守に任じられ、現地へ赴任していました。
その碑文には、蝦夷との国堺などとともに、「靺鞨(まっかつ)国」との国境線までの距離が記されています。
諸説ありますが、この靺鞨国は新羅の北の渤海のことだとされています。
だとすると、父・仲麻呂の野望を知っていた朝獦は、すでに新羅の併合を想定し、新たな国境として碑文にそう刻んだと考えられるのです。
それでは、当時の日朝関係はどうだったのでしょうか。そのころ、日本は新羅を従属的な朝貢国(ちょうこうこく)とみなし、一方の新羅は対等な立場を主張していました。
日本と新羅はその一事を巡ってギクシャクし、日韓関係はいまと同じように悪化していました。
唐の都長安で日本と新羅の使節が互いに上席を争ったこともありました。
かつ、日本からの遣新羅使が非礼な扱いを受けたこともあったようです。
こうして新羅への出兵論が朝廷内で高まっていたのです。
そこへ、渤海へ使節として派遣していた小野田守(おのの・たもり)から驚くべき知らせがもたらされました。
(つづく)
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