「関ヶ原の合戦」と「黒田父子」の謎③[敵方への密書] | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

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吉川広家は、兄(もと)(なが)が逝去した際、如水の周旋で吉川家の跡目を継ぐことができ、恩義を感じていました。


広家はその恩義を忘れず、自身が死去する直前、如水が眠る大徳寺龍光院(りゅうこういん)の墓のそばに遺骨を葬るように遺言したと伝わっています。


如水は関ヶ原で天下分け目の合戦がおこなわれるころ、その広家と頻繁に手紙をやりとりしています。


また、如水の嫡男長政も同様です。


黒田父子と広家――。


この三者間の水面下の動きを、現存する手紙から追ってみましょう。


まず広家は、毛利の外交僧・安国寺恵瓊(あんこくじえけい)の奸計によって、毛利が西軍の主力となってしまった事情について、弁解する長政宛ての密書を密使に託しています。


しかし、長政は東軍の陣中にいます。


かたや、広家は毛利一族として嫌々ながら西軍に従軍し、上方にいました。


広家にしてみたら、敵軍へ書状を送ることになり、すべて隠密裏に運ばねばなりませんでした。


広家の密使が残した覚書によりますと、このとき彼らは帯の内や笠の緒に密書を縫いこんで、鈴鹿峠を通る際には伊勢神宮の下級神職(御師(おんし))を装って東を目指したといいます。


(つづく)




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