吉川広家は、兄元長が逝去した際、如水の周旋で吉川家の跡目を継ぐことができ、恩義を感じていました。
広家はその恩義を忘れず、自身が死去する直前、如水が眠る大徳寺龍光院の墓のそばに遺骨を葬るように遺言したと伝わっています。
如水は関ヶ原で天下分け目の合戦がおこなわれるころ、その広家と頻繁に手紙をやりとりしています。
また、如水の嫡男長政も同様です。
黒田父子と広家――。
この三者間の水面下の動きを、現存する手紙から追ってみましょう。
まず広家は、毛利の外交僧・安国寺恵瓊の奸計によって、毛利が西軍の主力となってしまった事情について、弁解する長政宛ての密書を密使に託しています。
しかし、長政は東軍の陣中にいます。
かたや、広家は毛利一族として嫌々ながら西軍に従軍し、上方にいました。
広家にしてみたら、敵軍へ書状を送ることになり、すべて隠密裏に運ばねばなりませんでした。
広家の密使が残した覚書によりますと、このとき彼らは帯の内や笠の緒に密書を縫いこんで、鈴鹿峠を通る際には伊勢神宮の下級神職(御師)を装って東を目指したといいます。
(つづく)
※ホームページを開設しました。執筆・出演依頼などはホームページよりお申し込みください。